2010年12月25日土曜日

『ゴッドスター』

古川日出男さんの中編小説『ゴッドスター』は、
今年の「新刊」ではないけれど今年文庫化されたもので、
新しく出た本のなかで私が読むことのできた、数少ない本の一冊です。
というか、
本当は「面白いもの断ち」をしていたはずの時期に
つい買ってしまい、つい読み始めてしまい、
ぐいぐい引き込まれて、途中で閉じることができなかった本です。

私の記憶が確かであれば、
「この小説に解釈はいらない」と著者が語っていたそうですが、

それはきっと、『ゴッドスター』が
読者をひとつの体験に巻き込むような種類の小説だということなのだろうと思います。

「体験に巻き込む」というのは、

読んでいる私が、主人公と一緒になって
聞いているはずのに聞こえていない音に耳をすまし
見ているはずなのに見えていないものに目を向け
そのなかで毎日生きているはずなのに、よく考えてもみなかった仕組みについて考えるように
一つ一つの動作、一つ一つのことばを丁寧に捉えなおすように
自然に仕向けられていて、

そうして感度を高められる読者=私の感覚は、
小説のなかの世界に対してのみ有効であるというわけではなくて、
読んでいるときに自分が居る部屋の空間のなかにも、部屋の外に広がる世界にも向けられて、
それどころか、読み終わった後にも、
その感覚が鋭くなったままである、というようなこと。

その意味では、
一般的な小説よりも、詩に近いような本であるようにも思います。


2010年12月20日月曜日

舟唄

息を吸いに、走りに、たびたび行く公園はとても広くて、
管楽器を練習したりギターを弾きながら歌を練習したりしているひとが
いることは、さしてめずらしいことではないのですが、
今日聞こえてきたのは特別なものでした。

舟唄、でしょうか。
おじいさんの深くてつややかで息の長い歌声があたりに響きわたり、

船着場で到着を待っていて、まだ姿は見えないが遠く舟唄が聞こえてくる、

そんな情景が、一瞬のうちに広がるようでした。








2010年12月16日木曜日

「見てくれなかったなあ~」

松涛の路上で、斜め前を歩いていた小2くらいの男の子がひとり、
大きな声で

「あ~あ、オレの逆ランドセル、
誰も見てくれなかったなあ~」

見れば、ランドセルを上下逆に背負っている。

あ、 
と、男の子の視線と私の視線が交差したので
 (なぜ振り返ったんだろう、あの子は。
 と考えてみて、今日はブーツを履いていたので
 靴音で気がついたらしいことに思い当たった)

「おもしろいこと、かんがえたね」

と声をかけてみたら、

「おもしろくなんか、ないよ。
ただ、逆にしょってるだけ。
あと、上にカサもさしたけどね。」

たしかに、うなじの辺りにきているランドセルの底部には
閉じてきちんと巻かれた傘が一文字につきささっている。
 (いま、その仕組みを考えてみると、
 べろんとしたフタ部分を留める金具部分と
 ランドセル本体の間にできる隙間を利用したのだろう)

「誰か、見てくれないかなあ」ではなくて
「誰も、見てくれなかったなあ~」というのが、巧いなあ。

2010年12月7日火曜日

ヤギはヒツジよりも暖かい

電車のなかでめくった文庫本の一枚のページから
しんと冷える夜、体を縮めて横になり
濃紺の空にちら、きら、と輝く星は相変わらずきれいだが、
しかし寒い、
風がおさまったままでいてほしい、
寒い寒い、と
隣にいる痩せたいきもののぬくもりに寄り添う心持ちを想像した。


 「ヒトが間に入って眠るのには、ヒツジの方がヤギより冷たい。
 なぜなら、ヤギの方が身動きしないし、ヒトの方へ寄ってくるからである。
 ヤギはヒツジより寒さに耐えられないのである。」
     アリストテレース『動物誌』 (下) 第三章 「ヒツジやヤギの習性と知能」
     島崎三郎訳、岩波文庫、1999年、121頁。


2010年12月4日土曜日

世界を相手にする話

道を歩いていて、二人連れとすれ違うときに
耳をすましているわけでもないのに
こぼれ聞こえてくる会話のかけらがある。

先日、ついキャッチしてしまい、気になったかけらは
散歩中の老夫婦(と見えた二人連れ)の、おじいさんの方のことば。

「でもあれじゃ、世界には、通用しないよなア」



2010年12月3日金曜日

失せものはくすくす笑っている

メキシコ国立図書館の奥まったところにあるアーカイブで
手間と時間をかけてようやく手に入れた画像データなのに、
けっきょく使わないことにしようとしていたのを
いや、やはり使おうかと思い立ったら、なんたることか、
そのディスクは、あるべきところになく、範囲を広げて探しても見つかりません。

こういう状況のとき、エルバさんは
(個人的な使い方なのか、それとも慣用的な表現なのかわかりませんが)
さがされているものが、どこかに隠れて、くすくす笑ってる といっていました。

こどもたちの、かくれんぼの、かくれている方みたいな気分を
「失せもの」(さがしている私から見れば)が味わっているということでしょうか。
降参するから出てきてほしい。


2010年11月30日火曜日

走りながら教えてもらったこと

ある人から、一緒に走りながら、教えてもらったこと。

息があがったら深く呼吸をして整えるんだ 自分でコントロールするんだよ
かるく歌いながら走るのもいいし
音楽を聴いて走るのもいい、
気分がのるだけじゃなくて、自分の息があがっていることを意識しないしね

腕はそんなに振らなくてもいい、
今はゆっくり走っているんだから

足はそんなにあげなくても、
出した足を、ただ遠くに運べばいい


最後は必ず、スピードをあげて終える(cerrar)んだ
どんなに疲れていても
あの目印まで全力疾走と決めて、いくんだよ




目印はもう少し遠くにのばしてしまいましたが
走るときも、そうでないときも、教えてくれたことをくり返し、思い出しています。



2010年11月28日日曜日

東京の水辺


東京にも、歩けば日々の息継ぎができるような水辺の風景があります。
この野火止用水は、人がつくり、人が守っている「自然」。

家に帰って 写真を見ながら、この風景を思い返していたところ
こどもの頃に見た映画『おもひでぽろぽろ』の、とあるシーンとつながりました。

山里の景色を見て「田舎だなぁ」とつぶやいてから、
はっと「田舎なんて言ってごめんなさい」と慌てる主人公(タエ子)に
柳葉さん演じるトシオさんが、
いいんです、これは自然の風景ではなくて人の営みがあってできた風景だから
自然じゃなくて田舎だっていう感想は合っているんです、というような趣旨のことをいう。








2010年11月27日土曜日

ブーゲンビリア?




黄色、茶色、赤の秋色落ち葉に気をとられて
視線が下に向きがちだったところに、突然、別の色調が飛び込んできて

「えっ ブーゲンビリア?」

でも、秋の多摩にブーゲンビリアがあるはずがありません。

顔を上げたら、サザンカでした。





次の写真が、メキシコで撮ったブーゲンビリア(奥の木はハカランダ)。
花のつくり云々はさておいて、
見た目に受ける印象では、青みのあるなしが、一番の違いでしょうか。




2010年11月26日金曜日

私の書きもの机






これが私の書きもの机です、
というのがほんとうであるかのように、
深呼吸しながら書くのがいいのかもしれません。

この写真の机のあたりは、桜の葉のいい香りがして
深呼吸せずにはいられないのは、ほんとうのことです。


2010年11月21日日曜日

En busca del sol




En busca del sol





Sol encontrado

El paso del tiempo





En el mismo lugar, hacia la misma hora,



En un poco más de una semana...


Pero me gusta también el otoño,
cuando comienzan una nueva vida las hojas.

2010年11月13日土曜日

Yaka Yaka- Woka, "Ladybug"

今月、ひとつだけの贅沢。
これだけは、何がなんでも、見逃せませんでした。

とてつもなくかっこよいダンサーである友人・西林素子さんが出演する
ダンサー三人による Yaka Yaka- Woka のステージを見てきました。

ダンスと、映像 (そして音楽) を組み合わせたステージで
曲が変わるごとにガラリと違う味で、1時間強のあいだ、楽しみっぱなし。
ひとことで言えば 「目が釘付けになる面白さ」 でした。

が、それでは、自分が楽しんだだけで終わりなので
次回公演(2011年2月とのこと)を、
ひとりでも多くのひとに、間近で見てもらえたら素晴らしいという思いで

今回見ていないかたがたに
小難しいものだったかのような印象をうんでしまう危険を承知で書くとすれば…


身体表現のさまざまな可能性を追求した舞台なのだろうと、思いました。
間違いなく、見ていて楽しいダンスのショーなのに、
<からだ>には、これだけ多くの顔があるものか、ということに気づかされます。

デジタルの信号と化した世界と対比された、血の通った肉体。
猫のような仕草を取り入れたように見えた、動物的な肢体。
日常の生活のなかで、わたしたちが普段自然に動かしている、からだ。
その動きによって、コミュニケーションの道具となっているような身体。
欲望の対象となり消費される商品として演出される美しいカラダ。
まぶしいファッションを魅力的にみせるボディー。
湧き出る感情の表現手段としての、体。
リズムと、あるいはメロディーと一体となる、体。

など、など。

三人のダンサーもそれぞれ違う味を持っていて、
ひとりひとりに忘れられない一場面がありました。

嶌村さんは、ステージ脇の鉄棒をつかっていた曲での、妖しく、哀しく、逞しい美しさ。
松田さんは、ルイ・アームストロングみたいな声の曲にあわせた、体をつきうごかすような、
あふれる喜び (歌い手が見たら、嬉しいに違いありません)。
素子は、ウクレレ版「星に願いを」のときに、
青と白のイルミネーションを見つめて佇む姿
(あんなに踊れる人だからこそ、立ち姿も美しいのでしょう)。

今回の公演は明日11/14 (日)が最終日ですが、
(詳細は、右下の LINKS リストにある、西林素子さんのページからご覧ください)
ぜひ、2月の第二回公演へ。



2010年11月8日月曜日

ラジオ、ネットで詩人の話を聞く

詩人の新井高子さんから、
ラジオ番組ご出演のお知らせと、
夏に行われたトークイベントが
ネット上でダウンロードできるようになったというお知らせをいただきました。

ご本人の許可を得て、お知らせ(点線内)を転載します。

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1.
11月14日(日)夜11時~11時30分、
InterFM(76.1KHz)のラジオ番組「ラジオの街で逢いましょう」に出演します。
毎週、さまざまなゲストを呼んで、トークを届けています。
お忙しいところと存じますが、お聴きいただけたら幸いです。

2.
7月の六本木で、翻訳家のジェフリー・アングルスさんと行ったイベント、
「詩のタマシイ、日本語のソウル」が
「ラジオデイズ」という声のサイトから、ダウンロードできる運びとなりました。
このサイトは、上記のラジオ番組と連携しているほか、
講演、対談、朗読、落語、講談などなど、豊かなコンテンツがそろっています。
皆さんのお気に入りも、見つかるかもしれません。
こちらも、どうかお楽しみください。

サイトのアドレスや内容など、詳しくは下記でご確認ください。

秋も深まりましたので、ご自愛くださいますよう…。

新井高子拝
詩誌「ミて」編集人

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2010年10月27日水曜日

咲きつくして






   晩秋のようにピンと冷えた空気に影響されたのか、
   それとも、全体に花盛りを少し過ぎた頃だったからか、
   いっぱいに咲きつくした後の
   しかもまだ少し瑞々しさの名残のあるようなコスモスに、
   むしろ心ひかれた。
   まだそんな年ではないだろうに。




2010年10月26日火曜日

Alí Chumacero 追悼

先週の金曜日(10月22日)、
メキシコの詩人・文人、アリ・チュマセーロ が亡くなりました(1918- 2010)。

Fondo de Cultura Económica 版の、
ビジャウルティア作品集の編集にも携わり、序文を寄せている人物でもありました
(しかも、最近では待ち望まれる第二巻の編集を進めていたそうです)。


彼の詩が読める本で、版を重ねているために手に入りやすいものには、
チュマセーロ自身が、オクタビオ・パスらと共に編纂したアンソロジー
Poesía en Movimiento (México 1915- 1966)Siglo XXI editores, 1966
があります。

そこに収められた詩から、一篇を試訳してみます。

 
  風がさかまく海となるよりも前、
  夜がその喪服を自分の身につなぐよりも前
  そして星々と月が、空の上で
  天体の白さの場所を定める前に。

  光が、影が、そして山が
  それぞれの頂の魂が昇りたつのを見る前に、
  空気の下で何かが漂うよりも先に、
  始まり よりも前のときに。
  
  まだ希望がうまれていなかったとき
  天使たちがそのきっぱりとした白さで彷徨ってもいなかったとき、
  水が、神の知にすら含まれていなかったときに、
  前に、前に、ずっと前に。

  まだ小路に花々もなかったとき
  それは 小路でもなく 花々もなかったからだけど、
  空が青でなく蟻たちが赤でもなかったとき、
  もう私たちは、あなたと私だった。

("Poema de amorosa raíz", Páramo de sueños (1944)
  en Poesía en movimiento, pp. 215-216.)


詩人本人による朗読映像も、以下のページより見られます。
  
映像からすると、近年の録画のようで、ゆっくりした調子で読まれています。
この詩を書いた1940年代には、どんな調子で読んでいたのかも、
気になるところです。


2010年10月25日月曜日




右のひとは、髪ぐしゃぐしゃで下を向き、膝を抱えて座り込んでいる。

左のひとが、やあ君、どうしたんだい、と、その肩に手を差し出した。




2010年10月24日日曜日

cempasúchil の季節

この時季になると、鮮やかなオレンジ色の花を思い出す。

マリーゴールド、
原産地メキシコでは、センパスチル(アクセントは「ス」の部分)。



11月2日の、「死者の日」に、お墓を彩る。
茎についたまま活けるだけでなく、
花の部分だけ切り離したり、花びらにばらして飾ることもある。
記憶が確かならば、
死者が戻ってくる頼りとする灯りをあらわしているのだ、と聞いた。
(写真は2008年。メキシコ市近郊にて。)



10月31日のメルカード。
少しツンとしたお香があたりに充満していた。
(写真は2005年。チョルーラにて。)



10月31日のセンパスチル畑。
手前のオレンジ色の減っていく端に、
刈り取りをしている人物が写っている。
これより10日ほど前には、オレンジの正方形が市松模様を成していたのだろう。
写真は、2005年。チョルーラにて。)

2010年10月23日土曜日

はちみつレモン

はちみつレモンの香りのついた食器洗い洗剤をしばらく前から使っている。

はじめは、いい香りがするので、皿洗いが一層楽しくなった。

そのうち、はちみつレモン味のキャンディーを口に含むと
皿洗いの洗剤が口に入ったみたいに思えて困るようになった。
(ほんもののハチミツ入りレモネードは、味が違うので大丈夫。おそらく、問題は香料)

そして今や、洗剤の香りは、慣れすぎてほとんど気にも留まらなくなった。

さて。この状態では、はちみつレモン味のキャンディーを、
また美味しいと思えるようになっているんだろうか?



2010年10月21日木曜日

『エクスクレイヴ』 第2号完成

わたしの尊敬する友人、富田広樹さんの主宰する雑誌『エクスクレイヴ』、
第2号ができました。

四月に発行された第1号に続き、
るみちゃんのイラストで飾られた、わたしの小文も載せてもらいました。

執筆者(スペイン語関係者があっと驚くであろう方も文章を寄せていらっしゃいます)
それぞれのタイトルなど、
詳しくは富田広樹さんのブログ dia a dia (タイトルをクリック)をご覧ください。






2010年10月20日水曜日

迷宮とダイダロス

スペイン語で「迷宮」といえば
オクタビオ・パスの有名なメキシコ人論
El laberinto de la soledad (孤独の迷宮)のタイトルにもある
「ラベリント」がすぐに思い浮かぶ。

が、詩などでは、「デダロ」(dédalo)というのがよく出てきて、
ぐるぐる迷いこんでしまうような、また鏡張りのような「ラベリント」とは違う
ごつごつしたおかしな語感だと思っていたが、

オウィディウス『変身物語』(Metamorfosis)のスペイン語版を読んでいて
はっ と繋がった。

デダロとは、イカロスの父、ダイダロスのスペイン語名。
建築術や発明の才に長けていて、
ミノタウルスのための迷宮を作った。
だから、「ダイダロス」が、「迷宮」をあらわす。

dédaloという語が使われていたら、
アリアドネの逸話が、絡んで/繋がって、想起されるのかもしれない。



2010年10月19日火曜日

ヒラソル



レースのような葉に目を奪われて、近寄ってみれば
夏の間、存分にヒラソり尽くした、girasolであった



古川日出男さんのメキシコばなしが生で聞ける

『Coyote』 45号発売記念として、
古川日出男さんによるトーク・朗読・スライドショーをまじえたイベントが、
10月28日金曜日に、
表参道駅ちかくのRainy Day Bookstore & Cafe で行われるそうです。

生の声で聞くメキシコ滞在譚はどんなものだろうか。面白そう!

10月19日午後10時38分現在、まだ予約受付中の表示が出ています。


2010年10月17日日曜日

歴史、あるいは物語













たっぷり半日、土の上、太陽の下で過ごしたら、とても爽快な気分。
ヒト(である自分)も、やっぱり動物だなあと思う。

歩くのも、走るのも、土がむき出しになっているところを選んだら
じわ、じわ、 と 何かが<戻っていく>ような感じがある。





2010年10月14日木曜日

生きるよ、

特急の通過待ちの後、ようやく来た電車は混みあっていた。

私が並んでいたのと同じドアから、80代と見えるおばあさんが乗り込み、
するとその車両には、同じ年のころのおばあさんがいて
お二人の視線がふっと合い、ごく自然に会釈。

「混んでますねえ」
「ええ、そうですねえ」

偶然乗り合わせただけなのだけれど会話が弾む。
お二人とも、語調がチャキチャキしていて、とても格好いい。

バスと違って、電車は時刻どおりに運行するからいい、
だってバスだと、さんざん待って、いくら待っても来ないから歩き出したら、
そうしたら来るのね、途端に。
時間が気になるの、いやよ、だからあたし、約束はきらい。


と、ひとしきり話した後に、先に乗っていた方のおばあさんが、ふと


近頃は、乗換えが難しいでしょう。
だから一人で電車で出かけるのも大変。
今でさえ、こんななんだから、この先どうなっちゃうんだろうって思いますよ。
でもね、私は、生きるよ。どうやってもね。


2010年10月10日日曜日

Coyote 45号、古川日出男さんメキシコへ

Vargas Llosa のニュースに続いて、
ラテンアメリカ文学に関連した朗報。

Coyote の最新号(10月10日発売)で、
「メキシコが変えた二人の男」と題した特集が組まれている。

 “二人”の一人目は、ガブリエル・ガルシア=マルケス氏。
 もう一人は、古川日出男氏。

今年5月に、3週間にわたりメキシコに滞在した古川さんの書き下ろし長編に
ノックアウトされた。

自分の感性の角ばり あるいは表現力の拙さのためか、
どうしても陳腐になってしまうけれど、敢えてことばにするならば

五感で感じ取る、生(なま)の刺激 (匂い、味、振動、声、見るもの、、、)と
言葉を介して展開される思考、

じかに会う人との直接のやりとりと、本や作家との胸中での対話、

一人の「透明」なアジア人旅行者としての古川さんと、
作家としての自己意識を鋭くもった古川さん、

現実に起きた・経験したことの記憶と、
それを素材にして作家が書き上げた完成品としてのテクスト、


…などが入り混じるその具合が絶妙で、
(というか、こうして二項対立的に書き出してしまうのはアウトなのかもしれない)

あれこれの記憶が呼び覚まされるのを感じながら
文字に喰らいついてブンブンあちこちに振り回されながら読んでいく感覚が、
たまらなくよかった。




2010年10月6日水曜日

透明



太・細のペン先があるのにしてみよう、
ペン本体も水色のがいいかな、という感じに選んで蛍光ペンを買い、
翌日、さて使おうとキャップをとって驚いた。
真ん中の部分に、透明のプラスチックがはまっている。

巷ではすでに有名なのだろうか?

確かに、この部分までインクがしみわたっていても、蒸発するだけだ。
スカスカにかすれた蛍光ペンは、何だかわびしい気分になるから、
蒸発する分が少なくなって長持ちしたら、それは嬉しいことだ。


  (追記。このタイプのペンは、数年前からあったらしい。知らなかった。)

2010年10月5日火曜日

道で突然、誰かが倒れたら?

最寄の駅に着いたとき、異変に気づいた。
人の流れがつっかえている箇所がある。

改札へ向かう人通りの真ん中で、
おばあさんが地べたに足を投げ出した状態で座っていて、
背後を30代半ばくらいの女性が支え、
その脇に、おじいさんが立っている。

どうしたんですか、と聞くと、
その(かなりご高齢の)おばあさんは、突然転んで、頭を打ってしまったとのこと。

駅員さんを呼んで来ましょうか、と聞けば、
もう誰かが呼びに行ったとのこと。
何か力になれることもあるかもしれないと思い、とりあえず留まる。

駅の人は、なかなか来ない。

その間、二人の「目撃者」から様子を聞く。
二人とも、たまたま居合わせた人だった。

おばあさんは、「大丈夫です」、「銀行に行かなくちゃ」。
でも、その額には汗が滲んでいるし、
なんだか、ふらふらしているようにも見える。

ようやく来た若い駅員さん二人は要領を得ず、
転んで頭を打った、と聞いたばかりなのに、
座り込んでいる様子を目の当たりにしているのに、
おばあさんが「大丈夫」「銀行に」というのを素直に聞いて
「その銀行は、西友の隣だから、こっちの出口ですね…」

そばにいた目撃者の二人が「でも、頭を打っているんです」という声に、
転んだのは見てないけれど、その後の様子を見ていた私も加わる。

ご家族の誰かに連絡は取れないのだろうか、と思って尋ねてみたけれど
連絡を取れるひとはいない、一人ぐらしだ、とのことで、それもできない。

そうこうするうちに、もっと年配の駅員さんが出てきて
事情を知って、救急車を呼びましょうか、と呼びかけた。
  (なんという対応のちがい! 
  そして、この人の出現に安心したのか、
  目撃者のおじいさんは、役割を果たした、という感じで姿を消した。
  もちろん、それぞれ用事があるのだから、しょうがない。
  背後を支える女性は、留まっている。安心感。)

が、おばあさんは「だいじょうぶです」。

駅の医務室で休み、しばらく様子をみたらどうでしょう、という案にも、
おばあさんは、「うちに帰ります」 「タクシーに…」。

「銀行へ行く」という考えはやめたようだけれど、
しかし、家に帰っても誰もいないならば、帰るのがよい選択なのかどうか、わからない。

結局、おばあさんは「うちに帰る」という考えを変えることはなく、
駅員さんは、「じゃあ、タクシー乗り場にご案内すれば、おうちへ帰れますね?」

「無理に医務室にお連れするわけにも、救急車を呼ぶわけにもいかないので…」
という駅員さんの説明を受けて、完全には納得できないままに、
ずっとおばあさんの背後を支えていた女性と、会釈を交わして、その場を去った。

ほんとうに大丈夫なのだろうか。
どうするのが、よかったのだろうか。

帰宅してから消防庁のページを見たら、
東京消防庁の場合、 7119  という番号に電話すれば、
救急車を呼んだほうがいいのかどうか判断するための
アドバイスがもらえる、と書いてある。


たとえば、こういう番号に電話して、

目撃者の女性が客観的に見た、転倒の状況と、
客観的に見た、転倒後のおばあさんの状態(汗や、ふらついていること)と、
おばあさん本人の感じることを伝えて、
医療のプロの判断を仰ぐ、というのが、よかったのか?



(追記。
 もうじき医師になるべく奮闘中の友人の教えてくれたところによると、
 ご老人の転倒、頭部外傷は、外見上なにもなくて、その場で意識がはっきりしていても
 数ヶ月後にじわじわと症状が出てくることがあるので、病院での精査と 
 経過観察を勧める、とのこと。)

2010年10月4日月曜日

línea recta



直線は不自然だ。
感傷的だといわれようが、空や木のほうがいい。

2010年10月3日日曜日

武蔵野線

武蔵野線に乗った。
普段乗らない路線は新鮮で面白い。

途中、貨物列車を何本も見た。
しかし、小さいころに見たコンテナぎっしりの貨物列車と違って、積荷が、すかすか。
何も積まれていない、骨組みだけの車両がいくつもあり、
環境にやさしい鉄道貨物輸送、というような文字だけが目立っている。
一刻を争うものでない貨物は、もっと鉄道を利用すればいいのに、と思う。

駅名に「西なんとか」「新なんとか」「北なんとか」「南なんとか」というのが多い。
古くからの町々の中心部ではなく、それらが拡張した部分を通っているのか?

など、疑問を持ったまま帰り、ちらりと調べてみたら
もともと貨物輸送用に計画された路線だったとのこと。

旅客輸送が始まる前と後の、
沿線の人口増の様子や町の変化を追ってみたら、面白そう。


2010年10月2日土曜日

朝の目で見ること

自分の抱く印象なんて、いい加減なもので、
夕方にばかり見ていた彼岸花、曼珠沙華、は
ひどく迫力があって「空恐ろしい」感じがしていたのだけれど、
朝の光と、朝の気分のなかで見たら、とても清清しい花だった。






2010年10月1日金曜日

exilio とことば

Carlos Blanco Aguinaga 著、
Ensayos sobre la literatura del exilio español (『スペイン亡命文学についての試論』)
México, Colegio de México, 2006) に、興味深い注があった。

Exilio  (→「祖国からの追放;亡命」、「亡命地;亡命生活」 小学館『西和中辞典』
という語の定義をめぐる箇所につけられた、その注 (p. 13)によれば、

スペイン王立アカデミー(RAE)編纂のスペイン語辞書の
1927年版のもの (プリモ・デ・リベラ独裁下)と
1950年版のもの (フランコ独裁下)には、
Exilio という語が、そもそも、載っていないのだ、と。


語の抹消に至る過程に、想像をめぐらせる。

また、第二次大戦中の日本で発行された辞書にも、興味がうまれる。


2010年9月30日木曜日

火ガ華


天界に咲く、という曼珠沙華は
純白の花らしい。

それが、なぜ
目が離せないのは
美しいからか、
空恐ろしいからなのかわからないような
鮮やかな紅色の花の名になっているのか。

花弁をくわっと開く前は、
点火する前の手持ち花火に似ている。

パウル

9月27日、
詩集 『Agend' Ars 』 の刊行を記念して、
管啓次郎先生と写真家の港千尋さんの二人をゲストとして
青山ブックセンター本店でトークイベントが行なわれた。

  ―「土星の輪が頭をめぐる」とパウルはいうが

と始まる、三番目の十六行詩。
以前、UNAMのラジオ番組で紹介するチャンスを得て、
スペイン語にさせてもらったもの。

…なのに、
その <パウル>が、パウル・ツェラーンのことだと、
この月曜日に聞いて、初めて知った。

そして、パウル・ツェラーンの名には、
ハンス=ゲオルグ・ガダマー『詩と対話』(巻田悦郎訳、法政大学出版局、2001)
という本で、ようやく今年の初夏に、出会った。

(すべて知らずに、ことばだけを移した気になっていたのが、はずかしい)

こうした結び目、「つながり」を知ったからには、
つながったその場所から、もと来たのとは逆のほうの「くだ」に進み、
光と風の来るほうへ進み、
これまで知らなかった出口に 顔を出して、見渡してみることが、面白い。


2010年9月29日水曜日

視覚と記憶と未来の向日葵


よく聞き取れなかったことでも、音として反芻してみると
「ああ、~~と言っていたのか」 と後からわかることがある。

通りがかりに、ガサガサと硬くなった植物の残骸が目に入ったが
とっさにその正体はわからず、
けれどその直後、記憶のなかの映像がよみがえって、引き返した。

夏には、瑞々しくまぶしい向日葵だったものだ。
その中心には、いま、頑丈な種がびっしり埋まっている。



2010年9月28日火曜日

3時16分10秒

ちかごろ使っていなかった腕時計を取りだして、
よく見ることもせず身につけて出かけた。

電車に乗りこんでから、何時のに乗れたかな、と確かめようとして、びっくり。
朝なのに、3時16分10秒をさしていた。

一瞬、時差を直し忘れたか、と思いかけたが、
メキシコ時間でもおかしい。
いや、そもそも、これはあちらに持っていったわけでもない。

何のことはない、電池が切れていただけなのだけれど

これが何月何日の3時16分10秒だったのか、
午前だったのか午後だったのか、

知ることはできないし、知ったからといって何ということもないけれど
やけに気になって、
結局、一日、動かない時計を腕に巻きつけたままでいた。


2010年9月26日日曜日

Agend' Ars の一節

管啓次郎先生の詩集 『Agend' Ars』 (左右社、2010年)をめくりながら
思考や記憶や想像力をつかさどる、
脳や身体やかたちのないどこかに血がめぐるのを感じる。

特に、いまの自分にとってビンとくるのは、
10番目の16行詩の、ある一節。

 (詩の一部分だけを抜き書くのは、
 ある人の目や腕だけをアップで映すようなものかもしれないけれど)。

------------
[…]
読むことだけが書くことの糸口に
なるような「文学」はいらない
ある土地を出て別の土地に移り住む
だけでは生命の沈思黙考が足りない
否定的な語法ばかりでは色彩が呼べない
犬も鳥も育たずサボテンは開花しない、だから
まず鉛筆を持たずに輪郭を想像せよ
[…]
------- 『Agend' Ars』, pp. 15- 16.------



このビンときた振動をどうやって生かせるかが、問題。



2010年9月25日土曜日

「見学ですか?」

せっかくなら青空の下で、と
持参したおひるごはんを広げるのに、
湯島天神の休憩所のベンチに目をつけた。

隣り合わせたベンチにいたおじいさんに、
座る前に「こんにちは」と、一応声をかけた。

するとしばらくして、そのかたに話しかけられた。
「見学ですか?」「いえ、この近くで用事があるので、その前にお昼を食べるのに寄ったんです」

こんなやりとりから始まって、
思いがけず、カナダで長い年月を過ごしたという人生の一端を聞かせてもらった。

電車で隣り合わせるひとも、
道ですれ違うひとも、
誰もかれも、
リアルな人生の物語を持っている。

もちろん、すれ違うひと全員と言葉を交わすことまではできないし
そうしようと思うわけでもないけれど、
時として、こうやって回路がつながると、
自分は関係性のなかで生きる 「ヒト」 なのだ、と意識する。


2010年9月24日金曜日

旅に出る杭

メキシコには、「英雄が望まれない」というメンタリティがあるという説をエドゥに聞いた。
誰かがずば抜けた才能を発揮させたり、偉業を成し遂げたりした場合、
称賛されるよりも、妬みの対象になり、つぶされてしまうことが多い、と。

それって、と私は言った。
日本にある諺に似てる。
「出る杭は打たれる」っていうのがあるんだよ。

すると、「誰に打たれるの?」と聞かれた。

みなが横並びでありたい周りの杭に、なのか。
杭が横並びでいてほしい、「杭以上」の存在に、なのか。
あるいは、「杭以上」の存在の思いのままになっていることに気づかない、周りの杭に、なのか。

るみちゃんが、あるとき「出る杭は抜かれる」といみじくも言い間違えた。
彼女は、「杭の高さ比べ」のようなメンタリティを超越した人。
抜かれた杭は、帆柱にでも転身しそうだ。

2010年9月23日木曜日

「すべて」

スペイン語は基本の母音が a, e, i, o, u の五つなので
日本語と似た響きのことばが時々あって、おもしろい。

メキシコで市場に向かって歩いていたある日のこと、
おかあさんが、手をつないだ小さな娘にむかって言った。

「すべて!」

勿論、ほんとうは、「全て」と言ったのではなくて、
 "Súbete"
…一段高くなった歩道に、「のぼりなさい」、と言っていたのだった。


けれど日本語に似た響きにどうしても敏感な自分のあたまでは、
一段高いところに登るよう促すことと、「すべて」という日本語について
あれこれ考えが始まっていた。




2010年9月22日水曜日

石榴と月

あの石榴の木はどうなっているか、
と思ったら、おお、やっぱり、立派に実っていた。

暮れるのが早くなった夕方の空には、まあるい月。

三人の姉妹(きっと皆小学生)と、よく似た感じのおかあさんの四人連れが、
すれ違いざまに月のことを話していた。

「きれいなみかづきだね」
「え、なあに、これは三日月じゃないよ」
「ええー、でも、これが<みかづき>っていってた」
「やだ、これは満月っていうんだよ」

以前、中学以来のともだちが教えてくれたページを思い出した。

2010年9月13日月曜日

フライ級

帰りの飛行機で、めずらしい人と隣り合わせになった。

行き先は東京と埼玉、というので、なぜ埼玉?と聞いたら、
「peleaがあるから。」
喧嘩? と思ったら、それはボクシングの試合のことで。
隣の席のオスカルさんは、トレーナー。

メキシコからはるばる試合に…?と不思議に思い、、
国際試合の場合、どんな風に対戦相手が決まるんですか、と聞いてみれば、
オスカルさんがコーチしているTomás el "Gusano" Rojas 選手はフライ級の世界2位で
20日の試合の対戦相手は、世界チャンピオンの河野公平選手とのこと。

オスカルさんに、日本の食事はどんな?と聞かれて
メキシコでのトルティージャのように、米を炊いたのを主食に食べると答えたら
はじめは何だか腑に落ちないような感じだったので
トルティージャの代わりに、米を炊いたのを食べるんですよと言い直したら
「え、トルティージャは食べないの?あんなに美味しいのに!」

食事がちがっても、最高のコンディションで試合ができますように。


2010年8月25日水曜日

ファ、ラ、ド、

この町で夏を過ごすのも三度目になる。

一度目には手探り状態で資料を読んでいた。
二度目には手探り状態で書いていた。
今度は何としてでも、書いてきたものを完成させたい。

と、考えていると
ファ、ラ、ドドドドド と、いつもの(姿は見たことがない)鳥が歌った。
でも、今年はなにかをつかんだようだった。

ファ、ラ、ドドドドドドドド ファ 

オクターブ上がった。すごい。
トランペッターやオペラ歌手が、ひとつ上の音域に達したかのような、ほこらしさ。


ファ、ラ、ド、 ファファファファファファ


2010年8月12日木曜日

ジェリービーンズ

夕方、近いのに普段あまり通らない道を歩いたら

古くからある平屋のおうちの庭先に物干しがあって、
そこにジェリービーンズみたいにカラフルな洗濯ばさみが。
どんよりした曇り空に、ぱっと映えて見えた。

若い家族が越してきたのか。
おばあちゃんがカラフルな洗濯ばさみを使っているのか。
どちらにしても、楽しい。




2010年8月11日水曜日

私としたことが

和西辞書、「こと」の項を見ていて…

「彼としたことがなぜそんなことをしたのだろう?」
-- ?Por qué ha hecho tal cosa un hombre como él?

これは、なるほど そう言うのね、と思ったけれど、
次の文に目を通したら、つい笑ってしまった。
スペイン語が直球すぎるのではないでしょうか。

「私としたことが申し訳ありません」
-- Lo siento mucho. 
  ( →英語にしたら、 I'm so sorry. だろう)

日本語の上記の文のように、
この人は何をしでかしてしまったんだろう!?と、
あれこれ状況を想像させる喚起力を持った表現が、
きっとスペイン語にもあるはず。

2010年8月7日土曜日

agua de petit-green

メキシコでは agua de fruta 果物水をよく飲む。
水に、オレンジやパイナップル、西瓜、メロン、などの
果汁・果肉を加え、たくさんの砂糖を入れて。

日本のジューススタンドなんかで売られているものより、
たぶん水の割合は多いけれど、もとの果物の味が濃い、ような気がする。
(飲むときの環境も気分も違うので、ほんとうのところはわからない)

Limonada レモネード や Naranjada オレンジエードと 
アグア・デ・リモン、アグア・デ・ナランハの違いもよくわからない…

それはともかく、初めは甘いと思っても、そのうちやみつきになってしまう。


昨日は、氷水にプチグリーン(まびいたみかんの実、かぼす大)を絞って飲もうとしてから
そういえば、と思い出して、甘くしてみた。(氷を先に入れてしまったので砂糖がとけにくいこと…)

消耗するこの暑さに、嬉しい味。



2010年8月4日水曜日

逆光の猫

駐車場の砂利の上を、
夏の夕日をバックに、
貫禄のあるトラ猫がゆっくり歩いてきた。


2010年8月3日火曜日

ゾーキング

暑い夏。窓を開けていると、吹き込む風で夕方には床がざらざらに…

そんなときにはゾーキング。

床はすべすべ、
汗をかいてたっぷり運動、

一石二鳥、 か。


2010年8月2日月曜日

めぐり

先日の「求人広告」は、すでになくなっていた。
きっとすぐ定員に達したのだろう。ひろくなった保育園は賑やかさを増したことだろう。
ときは、着実にすすんでいる。
民家の庭で咲く、さるすべりの紅色が鮮やか。

2010年7月31日土曜日

chilito


トウガラシの芽がのびて、リズミカルに次々と葉が出てくる。



2010年7月29日木曜日

ひぐらし

町で聞くセミの声が減った。
あちこち掘りかえしてマンション建ててしまうからだ。
あと一年でようやく地上に出るはずだったセミもいたかもしれないのに
そのセミの地中の日々はどうなるんだ。

なんて考えたこともあったけれど、

広いあの公園はしっかりセミ騒に満たされていて
ばかに暑かった最近のいつだかの夕方に
バードサンクチュアリの脇を通ったら、
ひぐらし 何千もいるのではないかというくらいのひぐらしの
黒曜石的な響きを聞いて ふと現実が涼しくなった。


2010年7月27日火曜日

求ム

小さな公園の脇に立っている緑地の掲示板に

「急募 !

 0歳児 3名
 1歳児 9名」



保育園の施設拡張につき、という文字を読んで、腑に落ちた。

2010年7月19日月曜日

夏らしい日曜日、に 、進まない書きもの。

せめてスーパーに行くのに
7年前に真っ青だった、いまは青いビーチサンダルで出かけた。

歩けども歩けども浜には着かず見えるのは住宅ばかりでも
足の感覚が少し、海を思い出した。

2010年7月14日水曜日

緑でとんがったやつ

それにしても早いと思うけれど、
緑のツンツンとんがった栗のイガが落ちていた。

ちょうど、いつぞや、
「これが栗の花だよ」と孫息子に教えているおじいちゃんを見かけた
そのあたりだった。だから、時期的にはどうかなと思うけれど、
きっとあれは栗。強風をうけて落ちたのだろう。

ああ、あの甘くけだるい栗の花が咲いてから、
こんなにとがった実ができるまでのあいだに
自分は何を形にできたのかという思いもよぎったけれど
いや、むしろ、ツンツンとがった緑のイガに、刺激を受けよう。

2010年7月13日火曜日

レタスの千切り

ほんとうはレタスのことを書いている場合ではないのですが、
レタスは太めの千切りにして食べると美味しいのです。

メキシコでは、焼いた肉のつけ合わせに、
細く切ったレタスが出てきます。塩やレモンで食べる。

ポソレという、
大粒の甘くないトウモロコシ、豚肉あるいは鶏肉あるいはきのこ、唐辛子、タマネギ ほか
を煮込んだ具だくさんのスープがありますが
それには、テーブルで各自が、レモンをしぼって、オレガノと、ラディッシュをのせて、
そして千切りレタスをのせて、食べます。

千切りレタスは、お箸でたべるのにも、具合がよい。

7月12日 19時の夕やけ雲




2010年7月11日日曜日

選挙のたびに思うこと

選挙の結果はともかくとして、
投票に行くたびに、不思議に思うことがある。
投票者の本人確認が、甘いのではないだろうか?

投票用の整理券を持って指定された投票所に行って、
「~~さんですね?」「はい」 というだけ。
~~さんになり代わって投票することもできてしまいそうだ。

メキシコには、写真つきの有権者IDカードがあり、
しかも普段はひきだしにしまわれているというわけではなくて
選挙のときに限らず、
いろいろな場面において、正式な身分証明として使われている。

世の中に不正を行う人が存在しないのであればいいけれど、
そう信じきってもいられない。
期日前投票の数も増えているそうだし
なにかしらの対策が検討されてもよいように思う。

2010年7月10日土曜日

これまで気づかなかったとは


瓜に近いシャクシャクあっさりしたメロンを食べたら
ひとつの種に、芽の先が出ていた。
植えるしかない、と思って植えた。

公園に行ったときに、ふと思いついて
冬にどんぐりの落ちていたのを見た辺りに行ってみたら、
ぞろぞろ若い芽が出て、ぐんぐん伸びていた。

2010年7月6日火曜日

cool

ノートパソコン用の冷却装置を買いました。
小さな三つの扇風機がうまく働いて、よく冷えて静かで、大満足。

熱がこもってコンピュータが故障したら困ると思って探したのだけれど
(うたい文句によれば、10度温度が下がれば、2倍長持ちするらしい…)

パソコン本体、キーボードの手前の
両方の手首をあずけているあたりが熱くならないのが嬉しい。
去年は、熱くなった手首を冷やし、冷やし、パソコンに向かっていたものだった。

2010年7月2日金曜日

雨と にこり

雨が降る前に。雨が降らない前に。

なじみのあるのは前者だが、
すこし昔に書かれたものに出てくる、後者のいいかたも、いい。感覚とあっている。
と、最近になって思うようになった。

ちょっと違うけれど、似ているとも思うもの。
「にこりともせずに」 。
わたしが思い浮かべる人物の口元は、「にこり」の辺りですでに穏やかになっていて、
「ともせずに」 のところで、急に無愛想な表情に戻る。
読みながら早とちり的にイメージをつくってしまい、慌ててあとから修正する。

「にこりとして」 という形で出てくることは少ないのに、
どうしても、この表現に出会うたびに、
著者が描こうとしてはいなかった幻の笑顔を、一瞬浮かべさせてしまう。

2010年6月26日土曜日

「おれたちの勝ちだ」

市の図書館の隣に小学校があり、一年生の下校時刻に行きあたった。
蜘蛛の子を散らすように、という表現を思い出し、
あーあぶない、車に気をつけて、なんてひやひやしながら歩いていた。

と、蛍光きみどり色の「学童安全」ランドセルカバーをつけた
ちっちゃな男の子たちの一団のなかから、だれかが高らかに声をあげた。

―おれたちの勝ちだ!

サッカー?と思ったら、どうやら違う。

なんだなんだ、と興味津々で取り囲むともだち。
その子は、ちょっとばかり誇らしげに、重大な秘密をもらすように、

―オレな、こないだな…


もったいぶる。


―ランドセルのカバーをとって、くしゃくしゃにまるめてやったんだ!

おおおおおお……

2010年6月23日水曜日

門内幸恵さんの展覧会


Yukie Monnai


2005年メキシコ以来の大切な友人、
門内幸恵さんから、ふたつの展覧会のお知らせが届きました。

「常滑Art Safari」のチラシ(イベントのHPでも見られます)の表も、
彼女の作品です。

http://yukie-monnai.blogspot.com/
幸恵さんの絵には、どきりとさせられたり、
見とれる自分の瞳孔が開いていそうだったり、
絵の空間がこちらに滲出してきそうだったりします。

愛知県、岐阜県のかた、お近くにいらっしゃる機会のある方は
ぜひお立ち寄りください。


以下、幸恵さんからの案内です。
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■■■GALLERY CAPTION http://homepage1.nifty.com/caption/ ■■■
■‘Paintings’ 門内幸恵×源馬菜穂
■日時:2010/6/26-7/17
■Opening Party:6/26 18:00-19:30
■住所:岐阜市玉姓町3-12 伊藤倉庫
■電話:058-265-2336
■アクセス:JR岐阜駅から徒歩5分くらいです
(JR名古屋駅⇔JR岐阜駅は快速で15分程度です)




                                                         
■■■gallery rin' http://www.rin2005.com/ ■■■
■‘好きすぎておばけ’(個展) 門内幸恵
■日時:2010/7/10-7/19
■住所:〒479-0836 愛知県常滑市栄町2-65
■電話:0569-34-4158
■アクセス:名鉄常滑線「常滑駅」より徒歩5分くらいです
■TOKONAME ART SAFARI というアートイベントの中での展示です。
焼き物の街、常滑にて9人の作家が様々な場所で作品展示(個展)をします。
他にも音楽やパフォーマンスのイベントなどもあります。

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http://t-artsafari.jugem.jp/

2010年6月18日金曜日

焼きたてパン

先月、友人がブログにホームベーカリーのことを書いていた。

ふと思い出した記憶が別の記憶をひっぱってきて、
思い出したのがランサローテ島にあった、小さな商店のこと。

質素なコンビニのような、簡単な食材(ハムやチーズやら)も置いてある普通のお店。

「記憶すべきこと」は、
棚に陳列してあった袋詰めの大手メーカー印のパンのほかに、
レジカウンターの近くに、細々とではあるけれど、
おいしいパン(かなり細身のバゲット風)を置いていたこと。

ある朝(と言ってもそう長く滞在したわけではない)、
あのパンを買おう!と思って行ったら見当たらず、たずねてみると
「まだ焼けてないのよ。」

まだ届いてないということか、と一瞬思ったけれど、
指さす方を見てみたら 家庭サイズの小さなオーブンがあって、
中には、赤々と電熱に照らされ熱せられる途上のパン生地があった。
道理でおいしいわけだ。

日本のコンビニチェーンなんかでも、
パン生地の状態で各店舗に配って、
それぞれに備え付けた小さなオーブンでじりじり焼いて売ったらどうだろう。
超限定商品になってしまうけれど。

2010年6月16日水曜日

海の近くって

蒸し暑い昼下がり、
お昼休みを終えて職場に戻りがけの上下桜色の制服をきた女性がふたり歩いてきて、
ちょうど青にかわったばかりの横断歩道をわたり、
赤のときから待っていたわたしは一歩出遅れて、

しばらく、わたしはふたりの後を歩くような格好になった。

暑さのせいか、しばし沈黙があってから、ひとりがおもむろに口を開いた。

-海の近くって、こんな風に湿気て暑いよね。

-そうだね。湿気て、暑いよね、海の近く。
 なんかさ、そう言ったら、海に来たわけでもないのに、ちょっと楽しくなってくるね。

2010年6月15日火曜日

Periódico de Poesía

サッカー好きの詩人ペドロ先生が率いる メキシコのオンライン詩誌
Periódico de Poesía (ペリオディコ・デ・ポエシーア)に

管啓次郎先生の 連作詩 "Walking” の三篇のスペイン語版が掲載されました。
http://www.periodicodepoesia.unam.mx/index.php?option=com_content&task=view&id=1371&Itemid=88

訳を手がけさせてくださった詩人、
ぱっと気に入って掲載を決めてくださった詩人、
そして、わたしの拙いスペイン語訳をチェックしてくれたアウロラとヒメーナに、深く感謝。

2010年6月14日月曜日

猫の誉れ

クセジュ文庫のある本に、
「夜はどの猫も鼠色になる」と訳されたフランスの諺が出てきて、
まったく本題とは関係ないその箇所で、えっ、と視線が止まった。

小学館・ロベール仏和大辞典をドサリとめくってchatの項をみれば、
(Dans) la nuit, tous les chats sont gris.
という諺は、
「夜はすべての猫が灰色に見える」ということから、
暗くなると[相手の]判別がつかなくなる;夜目遠目笠の内。

やっぱり、ネズミの色だとはどこにも書いていなかった。
ネズミ色と言われては、猫の誉れはどうなることだろう。

昼であろうと夜であろうと、わたしの色は猫色です。

と考えてから、

ネズミにも毛色はさまざま、
黒と白をまぜたような色だけを「ネズミ色」と称されては困ります、
ネズミであるわたしの色はわたしにとって「ネズミ色」以外のなにものでもないのですから
という、白やら茶色やらのネズミがいるかもしれない。

と書いみてから、おお…お茶も一色に定まっているわけではない…