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2012年3月31日土曜日

西林素子企画・構成・振付「Nocturno」

2012年6月、日暮里のd-倉庫にて、

西林素子企画・構成・振付によるダンス・パフォーマンス

"Nocturno” の公演があります。(3月1日より、予約受付中)


このblogでも、何度か彼女が出演したダンス公演の感想を書いたことがありますが

今回も、期待が高まります。


ダンスやステージパフォーマンスに関心がある人にはもちろん、

これまで特に興味がなかった人にも、ぜひおすすめしたいステージです。

どうしてか。

まずは、ちらりとご覧ください。

"Nocturno"にも出演する西林素子さん、蔦村緒里江さんが

もう一人のダンサー松田尚子さんと共に組んだ YakaYaka-wokaの

映像記録がyou-tubeで見られるようになっています。

(平面になった映像でも十分いいですが、実物はもちろん、さらにattractiveです)

http://www.yakayaka-woka.com/official/Movie.html


"Noturno"詳細は、西林素子HP内、以下のページをご覧ください。

http://www.motokonishibayashi.com/web/news/entori/2012/3/12_Nokuturnochiketto_yu_yue_kai_shi.html




2011年4月7日木曜日

「音と言葉と身体の景色」3月27日 (3)

今朝にひき続き、
「音と言葉と身体の景色 vol. 6」について。

書かずにいられないのは、
原発の事故が起きてから、いま強く感じている、やり場のない気持ちと
先日上演された第二作目、『椅子と伝説』に
ひびきあうところがあったため。

不条理演劇が書かれ上演されるのは
人間の社会に、現実に、不条理なことが起きるからなんじゃないか、
(乱暴な言い方をすれば) そう、客席で思った。

しかも、
作品の前半では、
いわれのない疑いを向けられた「男」と、彼を糾弾する者たちのやりとりが中心で
「男」に対して、「なぜ、こうやって切り返さないのか」と
(無駄とは知りながら)念じたりする余裕が、いくらか、あったのが
後半、
舞台上の「虚構」と、客席にいる自分の「現実」が、くっきりとつながってしまって
めまいがする思いだった。

「俺の目を刺したのは、だれだ」
「何故、止めなかった」

「そんなことが起きるなんて、思わなかったんだ」

「責任逃れをするわけじゃないんだ、
しかし、殺すつもりはなかったんだ」

(台詞は、私の記憶のなかで変化してしまっているかもしれません)

危害を加えるつもりはなかったのに、
そんなことが起きるなんて予想もしていなかったのに、
受動的な、無自覚的な、加害者となってしまうこと、
その、やりきれなさ。
舞台上ではなく、それが現実にも、起きていることに。

舞台は一旦終わるが、現実はここにある。



以下は、私と同じように、初めて公演を見た人たちへ。
「身体の景色」のページに、謎の、「ワンピースの女」についての
ヒントかもしれない、と思う記述を見つけました。

「音と言葉と身体の景色」3月27日 (2)

先日(4月2日)の続きです。

要するに、
『舞え舞えかたつむり』はたいへんなテーマを扱ったもので、
見るのに相当のエネルギーが要りましたが
それでも見に行ってよかった、と思うのは、

まず、私にとってあの舞台が、
「こたえ」ではなくて、「問い」を発するものだったから、
なのだと思います。

 「いま必要なのは
  断言することばではなく、問いかけることばだ」

と言ったのは、誰だったか、、、
(ごく最近、日本語の音として聞いたのかもしれないし、
あるいは少し前に、スペイン語の文字として目にしたのかもしれません…)

それから、深刻な主題、深刻な展開を、真剣に追って見ていると
「脳が緊張状態になっている」ような感覚を持つのですが
あの舞台では、
深刻な中に突然、可笑しなひとが出てきたり、
可笑しな動きが混ざったり、
場違いな懐メロがかかったりして
(しかも、BGMとしてかかるのじゃなくて、音楽が役者を動かし・躍らせ舞台を支配する)
一瞬 「え!」 と思い、
それから、ふっと、脳と全身の緊張が解けて
全身ガチガチになりかけて(おそらく、登場人物に自分を同化しすぎて)いたのが
外から見ているちょっと冷静な感覚を取り戻せる。
それで、問いは受け止め、かつ、打ちのめされずに、いられる、のか。

なんだか、考えすぎのようですが
一作目については、こんなことを考えました。




2011年4月2日土曜日

「音と言葉と身体の景色」3月27日

3月27日、「ことばのポトラック」の会場を出たあとに
日暮里へ、「音と言葉と身体の景色」の演劇を見に行きました。
「身体の景色」の岡野さんと共に演出を手掛けた田中君、
誘ってくれて、ありがとう。おかげで見逃さずにすみました。

別役実さん原作の戯曲の二本立て、
濃い一時間半でした。

作品の"意味" を理解しようとしなくても、いいんだ、という声もありますが
私が思うには、投げかけられているものを見過ごしたらもったいない、
ただ、唯一の正解としての"みせる側の意図" に迫ろうとするような見方ではなくて
観客席で見ていた自分にとって、そのとき、その場で、どんな意味がうまれたのか
ということを観察したり、そこからあれこれ考えをめぐらせたりすることが
作品を、しかと受け止めることになるのじゃないか。

そのようなスタンスで、
以下、田中君に宛てたコメントのようなつもりで
作品を見た私に生じたあれこれを書いてみます。
(見てからほぼ一週間経った今も、
 まだ 頭のなかの"濁り" のようなものが澄み切らないのですが)

まず今夜は、一作目について。

・『舞え舞えかたつむり』

実際に起きた殺人事件を題材にした作品ということで
はじめ、少し身構えてしまいました。
生身の人間が生きた苦しみ、痛み、悲しみを、
第三者が「作品」として取り上げ、演じて、また別の人に見せる、というのは、
生半可な覚悟ではできないことだと思うから。

けれど、
夫を殺した妻のことばが、
取調官の口からも、
そして殺された夫か警官かはたまた蠅なのか判然としないおかしな男の口からも出てきて、
声に重なる声が錯綜し、
調書を印刷した紙がばらまかれ、錯綜し、並べられ、また錯綜するのを見、聞き、するなかで

始まる前に自分が感じていた "気おくれ"あるいは警戒心のようなものは、拭い去られました。
舞台から、問い のようなものが、次々と、発せられているように感じたから。

警察官が調べて跡付ける「事件の動機」に対する
無機質な文章として書かれるような「事件の筋書」に対する
そうした筋道をつけて「動機を解明する」ことそのものに対する
強力な問い
 それで、何が晴れる?
 そんな問いは、"調べられて" いる本人が、
何度も何度も何度も繰り返したことなのに、
 それを第三者が問うて、
 手に入る手がかりだけを基に、解釈をひねり出して、どうなる?
また、
 誰が "当事者"なのか?
あるいは、
 誰が"当事者でない"のか?
つまり、
 どんな人間が、あのような絶望を前に、耐えることができるのか?
 理由がわからないことに対して、頭を抱えたのは、誰なのか?
 「なぜ殺害を思い立ったのか」、「いつ」、と問いかけているのは、誰なのか?
そして、
 答えているのは、誰なのか?
また、
 「真相」の解明など、誰にできるのか?
そもそも、
 唯一の「真相」 があるという考えも、虚構なのじゃないか、、、?

(第二作『椅子と伝説』 に続く予定)