2007年8月30日木曜日

最後の夜に電話

明日ベネズエラへ発つエドノディオさんから電話をもらった。
一年間の滞在を締めくくる今日、
いくつかの素敵なおみやげを見つけることができたそうだ。
誰には何を、誰には何を、と次々と教えてくれるので、
想像もつかない国の会ったこともない人たちなのに
一人一人がそのおみやげの包みを開き、驚き、喜ぶ顔を想像する。

ところで、と話が変わった。
弦に鏡を預けたから、ちゃんと受け取るように。
鏡は姿が映りこむものだから、捨てることはできないし
やたらな人にもあげたくない。
いなくなってから、あるとき、私が映るかもしれないしね。

書くときも書かないときも、作家なんだ、この人は。

滞在中に書きためた十数冊もの小さなメモ帳には
何が書かれているのだろう。そこから何が生まれるのだろう。

今までに出版した作品について
エドノディオさんはある約束をしてくれた。
私にとって最高の置きみやげだ。

プロフィール、書評、いくつかの作品の読めるページ

Ednodio Quintero

2007年8月29日水曜日

天竜・浜松追想

仏西バイリンガル、仏墨バイカルチャーの少年ニコラを迎えて、おもてなしの天竜/浜松旅。7月半ばの大雨の翌日。旅は天竜川下りから始まった。いつもは川底の石まで見えるというのに、すっかり水かさが増え、濁っている。苔に泥が積もってしまったので、水が澄んでも鮎は帰ってこないという。鮎たちは、大雨の前に支流の小さな清流に避難するそうだ。確かにきれいな流れの上には川鵜がたくさん飛んでいる。



一両の列車、飯田線がちょうど横切った。もしかすると、船の時刻は電車にも合わせてあるのだろうか。川沿いは季節によって見所がたくさんあるようで、藤の季節には山一面が藤色になり、桜の季節には、満開の桜の中をすべり下りる全長60メートルものすべり台があるとか。7月末の花火大会の折には、川沿いの病院の病室が見舞い客でいっぱいになるらしい、と船頭さんが話していた。



天竜二俣駅。古い列車の車両(ミニトロ)が置いてあり、乗り込んで自転車のペダルでこぐと駅構内の線路を少しだけ行き来することができる。ちょっと足の長いアンパンマンは、「ミニトロにのるときは大きい人と一緒に、切符を買って入ってください」





「温泉と美術館、どっちに行きたい?」「温泉!」ということで、駅のパンフレットで見た「あらたまの湯」へ。森林公園の中に今年4月にオープンしたらしい。入り口の傘たてには、傘よりももっと大切な杖が預けてあった。
ジャグジーと源泉を楽しんだ後、
そのまま外に開けたお風呂場のデッキチェアで蝉時雨を聞きながら一眠り。目が覚めたら水を飲んでまたお湯とサウナ。一人だけ男湯へ行ったニコラは、地元のおじいさんたちと日本語で話ができたと喜んでいた。

翌日の浜松まつり会館。五月の凧揚げ合戦に使われる凧。昔は五月人形のように、凧といえば男の子が誕生したときのお祝いだったようだが、今では女の子の名前が入った凧もある。けんか凧の様子をビデオで見たニコラは「パンプローナ(の牛追い祭り)よりもすごい熱気」。スペインにも行ったの?


遠州灘は遊泳禁止になっているそうだがサーファーの姿がちらほら。遭難する人が後を立たないらしく、空には沿岸を警備するヘリコプターが二台飛び回っている。アカウミガメの産卵場所には、保護ネットの中につくりものの大きなウミガメも飾ってある。砂丘では地元の高校生が部活動トレーニング中。迫力のある先生が気合を入れ、オレンジ色のユニフォームの部員同士も声をかけあって、砂に打ち込んだ杭をざくざく飛び越していた。



2007年8月28日火曜日

赤銅色の月

日本時間の今夜7時ごろから8時半ごろにかけて、
皆既月食が見られるらしい。
うまく雲が切れるといい。

国立天文台がつくった図を見たら、
那覇・東京・札幌でだいぶ月の軌跡が違う。
那覇では月が空高くあがるんだ…

2007年8月27日月曜日

木々に惹かれて伊勢参り

一本一本がご神木と殊更に祀られていなくても、それぞれの木に何か宿っていそうだった。2000年以上もの歴史があるというこの場所。それぞれの大木は何を見つめ、何を感じてきたのか。 外の世界とは切り離された「聖なる空間」にあっても、そこを訪れる人たちの運ぶ空気で時代の変化を感じていることだろう。








参拝する前に心身を清める場所、五十鈴川。 緩やかな下り坂になっていて、吸い込まれるように川辺へ降りてゆく。 神宮なのに仏教を持ち出すのは的外れな連想なのだろうが、つい、三途の川ってどんなだろう、と考える。帰ってからから、きゃしぃに話すと、 「三途の川、渡り切ったらだめですよ、向こう岸に着いたらターンして帰って来ないと。」一体、三途の川をクロールで往復した人がいるだろうか。







とても居心地がよさそうに見えた。彼(女)はどうやってこの葉までたどり着いたのか。どこから来て、この先どこへ行くのか。









神鶏というらしい。 たくさんいた。神楽殿でお守りを選んでいるお母さんの手を引っ張り、小さな女の子が「ねえ、鶏がいるよ!」「鶏!」「あそこに、鶏!」  お母さんは生返事。 やっと振り返って見たかと思えば素っ気なく「そうね、鶏ね。」入り口の方からやって来た女子高生の一団は、キャー鶏!と盛り上がっている。 お母さんもあのくらい反応してあげたら嬉しいだろうに。








伊勢への道中あちこちで花盛りだった、百日紅。さるすべり、と平仮名で書くとコミカルな映像が浮かぶが百日紅という漢字は、しっとりとした風情によく似合う。恥ずかしながら、実は旅の間、この花の名前がわからなかった。後日、母に写真を見せると、「百日紅ね。」
そういえば、母は千歳烏山のお蕎麦屋さんでいただいた美味しい夏の魚「たかべ」の話をしたときも当然のように知っていた。









「帰り道→」と、迷わないように教えてくれるのが なんだか日本らしい。標識もなく、神宮の森に迷い込むのもまた面白そうなのに。ひんやりとした森を歩き、ヒグラシが鳴いて日が暮れて、「出口は一体どこなんだろう。」

2007年8月26日日曜日

御座白浜 ~志摩の海辺にて~

先週の伊勢旅行。
片道6時間、10人乗りのドライブの果てに
(夏風邪でドスの聞いた声になっているのに、
道中、画家の
渚-itaと喋りっぱなし)
野菜など買い込んで志摩の御座白浜キャンプ場に着けばもう夕方。
お伊勢参りよりもまずは海。
一雨来ないうちにワカモレに舌鼓、バーベキューに食らいつき、
夜になれば浜辺で花火。
ecologistaのホセは花火には手を出さず、
寝転んで星空を見上げていた。

夜の浜でNagisitaが言った。

「あの、波打ち際のきらきら光ってるところ、何て言うか知ってる?」

「なんていうの?」
「渚だよ。」

朝方、日の出を見ようと浜へ出た。

5時前に目覚ましをかけたのにもう空は白んでいる。
海からのご来光をイメージしていたのに、海は北を向いていた。
しかも残念なことに、
太陽の居所は斜面の木々や家々に隠れている。

それでも、変わってゆく空がとてもきれいだった。
眺めているうちに、ふと思い出す。

夕焼けの終わり近く、もう西の空が暗くなり始めた頃、

東の空を見ると、雲が桜色に染まっていることがある。 朝焼けでも同じことが起きるだろうか。

西の空を見ると、
逆光の写真みたいに暗くみえる雲のなかに、
いくつか桜色に明るい雲があった。

あれにも、何か名前がついていないのだろうか。
もし日本語になくても、
探せばどこかの言語にあるんじゃないかしら。

空が水色になってきた頃、ぞろぞろねぐらへ戻り、
もう一眠り。


昨日の残りのトウモロコシや、
塩レモントマトの朝ごはんの後、
いざ海へ出かける。
逞しい面々は数十メートル先の浮筏まで泳いで行って、
スピンを効かせた飛び込みコンテストをやっていた。
途中まで泳ぎかけたけれど、とてもあそこまでは…


浮き輪をつけたこどもたちがゴロゴロ漂う波打ち際で、
麻衣子さんにフリスビー指南を受けた。





      photo by Masato Akaike

2007年8月25日土曜日

歌声図書館

メキシコ国立自治大学の中央図書館一階は、
賑やかなことがしばしばあった。
しかも、なんだか朗らかな賑やかさなのだ。

背の高い大きなガラス窓に囲まれた閲覧・自習スペースでは、
勉強している人、昼寝している人の他に、
カップルが楽しげに小声で話してくっついたり、
グループで何かの相談をしていたり。

その朝座った席の目の前にいたおじさんは、
集中できなくなると 音読したくなる性質らしかった。
低くていい声だった。
そのうちもっと集中力が切れたらしく、ビブラートのきいた鼻歌が始まった。
さすがにちょっと困って視線を送ったら黙ってくれた。

昼を食べて再び図書館に戻り、うつらうつらしていると
どこからか女性の歌声が
すっかり目が覚めて声の出所を探す。
二つ向こうの机に陣取り、ヘッドホンをつけて歌うおばさんを発見。
今度の歌は鼻歌なんてものではなく、歌詞もしっかりついている。
私が彼女から目を離せないでいると、私の隣に座っていたおばさんが
「あの人、ヘッドホンしてるから気づかないのね。」
二人で目配せをし、苦笑。
しばらくすると、気分が盛り上がったのか
次第にボリュームが上がってきた。
新たに歌声ゾーンにやってきた男の人も、
座ってしまってから歌声おばさんに気づいて苦笑する。

あまりに気持ち良さそうだったので誰も何も言えず、
暖かい昼下がりの図書館は、
何人かの困った顔と、おばさんの朗々とした歌声と
ふふふ、くくく、という笑いでいっぱいになった。

2007年8月24日金曜日

夜のチャプルテペック

ある夜、チャプルテペック公園を散歩した。
普段、夕方は4時半に閉まってしまうのだが、

その頃は毎週水曜夜に定員40人の夜散歩ツアーをやっていると聞き、
情報誌の記事を切り抜いて幸恵さんとヨン君を誘った。


サン・アンヘルで待ち合わせ、チャプルテペック直通のバスに乗る。
が、これが失敗で、すっかり夕方の渋滞に巻き込まれ、

ようやく着いたと思ったら、開いている門がなかなか見つからず
集合時刻にわずかに間に合わなかった。

門衛のおじさんに「夜の散歩に来たんですけど」と言うと
「もう定刻過ぎてるから入れないよ。」

いつもはみんな時間にルーズなのに…がっかり。
ヨン君が「ぼくたち、明日国に帰るんです、今夜が最後のチャンスだったのに…」。
彼の滞在はあと2年、私たちはあと半年残っていたのだが気にしない。
ほかにも間に合わなかった人たちが到着し、
それぞれがっかりし、ぐずぐず留まった後に立ち去って行った。

諦めきれない私たちは、まだそこにいて、おじさんとあれこれ話を続けた。
ヨン君はいつの間にか日本人ということになっている。
メヒコには親日家が多い。

ふと、おじさんの気が変わり、
「はるばる来たんだから」と、そっと中に入れてくれた。
「散歩し終わったら、門が閉まる前にちゃんと出るんだよ。」


ぞろぞろ連れ立って歩く見学客の後姿を横目に、
人気のない夜の公園を3人で好きに歩き回る。
おなかが空けば持っていた菓子パンを分け、
「私、かわいい?」という韓国語のフレーズを教わって
そんなフレーズを普通に使うことに驚いたりして、

日韓文化の差にワイワイ盛り上がりながら、
巨大な公園の中の

湖、英雄少年たちのモニュメント、チャプルテペック城の3箇所を回った。

だらだら坂を上って城の入り口まで着くと
「一体どこから入ったんだ」と驚かれ、 適当にお茶を濁す。
「公園にいたら、いつの間にか人がいなくなって、気づいたら出られなくって」
怪しみながらも、守衛さんは中世スペイン展の夜間観覧イベントのチラシをくれた。

「今日は入れてあげられないけど、今度は予約して、これを見に来るといいよ。」

入り口まで戻ると、さっきの門衛のおじさんはもう交代していて、
事情を知らない新しい門衛さんの横を、

我々アジア人3人、何事もなかったかのように外へ出た。

2007年8月22日水曜日

発想の宝庫

こどもは発想の宝庫だとつくづく思う。

先日見た小学4年生くらいの女の子二人は、
なんだか示し合わせて「よし、いくよ。」と元気に言ったかと思ったら、
次の瞬間、
二人でしょんぼり下を向いてひどくトボトボ歩き出した。
しょんぼりごっこだろうか。

ご近所のもう少し小さな女の子二人は
この夏、一輪車に挑戦中。
暑さにも負けずしばらく乗ったり落ちたりを繰り返した後、
替え歌づくりに熱が入りだした。

メロディーはトトロの「さんぽ」。
次第に盛り上がってきた二人は振り付けを考えはじめ、
ああしたほうがいい、この動きがいいと何度も繰り返して歌うので、
思わずペンをとり、書き取った。

♪ 乗れない 乗れない 私は乗れない
ぜんぜん乗れない ぜんぜん乗れない
みんなは ***(聞き取れず) 体は汗だらけ
赤アザ 青アザ 顔はまっかっか
最後は頭が バクハ・ツ・だー ♪

最後は転んで すりむ・い・たー で終わるバージョンも。
バクハツバージョンの両手を元気に開いて空に上げるしぐさがいい。

元気に歌いながら、
行進して畑のほうへ向かって消えていったあざだらけ傷だらけの二人は、
とことこ戻ってくると、再び一輪車にまたがった。

2007年8月21日火曜日

虹のかけらをつれたおばさん~2006年2月のメキシコ日記より~

ある朝のこと。
大学へ行こうとぺセロ(乗り合いバス)に乗りこみ、発車を待っていた。
ふと見ると、
斜め前の座席の背に、小さな虹のかけらがたくさん。

どこから?と探すと、すぐ近くに虹のもとが見つかった。
隣の席にいるおばさんの黒い上着に、
グリンピースより小さいくらいの、

丸やひし形や正方形の、たくさんの銀色の飾りがついている。
そこにメキシコの強い陽の光があたって、
小さな虹がばらまかれていた。

「虹をつれてますね」と言うと、
「あら、ほんと」。
自分の上着を見て、虹のかけらを見て、
興味深そうにしている。

バスが動き出して光の向きも変わり、

私の前の席に虹が来た。
持っていた紙で虹を拾うと、
「あなたの顔にもうつってるわよ」

私が降りるとき、おばさんは声をかけてくれた。
「またね、気をつけて」

私の顔にうつった虹は、
バスを降りたら消えてしまった。残念。
おばさんはあの後、虹を連れてどこまで行ったのだろう。

2007年8月18日土曜日

詩人との待ち合わせ ~2006年6月のメキシコ日記より~

2006年ワールドカップの最中のある日、
詩人であるPedro先生とクラスメイトと、
アルゼンチン料理屋で昼食の約束をした。
場所はコンデッサという、メキシコシティ一番の洒落た地区。

「Alfonso Reyes通りとCosala通りとの角にある
11という名前のお店に

1時45分に待ち合わせよう」というメールが来た。

先生は無類のサッカー好き。
その日の試合は2時キックオフだった。
この頃、メキシコシティの多くのレストランでは
テレビを置いて、ワールドカップの中継を流していた。

地下鉄を降り、1時45分ごろAlfonso Reyes通りに到着。
通りに入ってすぐのところにアルゼンチン料理屋が一軒ある。
でも名前は「22」。Cosala 通りと交わってもいない。

レストランの駐車場係りのおじさんに、
この通り沿いにもう一軒アルゼンチン料理屋がありますかと尋ねると、
「あるよ、10って名前だよ。」

11?10?22?
11-1か11×2か。どちらも間違えそうな名前。
22の店内を見渡すと、知った顔はいない。

友人に電話をかけてもつながらない。
しょうがないので、10を目指すことにした。
10に向けて歩いていると、友人から 電話がかかってきた。
「電話くれた?」
彼は、きっと22が約束の場所だろうと言い、そこへ戻る。

22に戻って友達と落ち合い、
「角の通りの名前が違わない?」と言うと 「確かに。」
22にはまだ先生の姿はない。
もう2時なので、サッカー好きの先生はきっと店に着いているはずだろう、
ということになり、 二人で10を目指す。
10は確かにCosalaのそばにあった。 でも先生の姿はない。
アルゼンチン料理屋11があるかもしれない、と、Cosalaを少し先まで歩いてみる。
それらしいお店はない。
10に戻ると、先生の姿が!

「先生、ここは11じゃなくて10ですよ」
「え?そうだった?ははは」

10は、マラドーナの背番号から来ているらしい。
試合は2-2だった。

ときどきゴール付近の映像に釘付けになりながら、
サッカーと詩の共通点について、 ワインの至福について、
部屋にこもって仕事をするときの、儀式的夕食についてなどの話を聞き、
牛の首の肉、チーズ、ステーキにバスクワイン…

数に頭をひねった後には、美味しく刺激的な昼食が待っていた。

2007年8月17日金曜日

白川郷 ~2006年8月の旅日記より~

世界遺産に登録されている飛騨の白川郷へ行った。
多量の降雪に合わせた急傾斜の屋根で、
養蚕のための空間を大きくとるところにも
特徴のある「合掌造り」の集落。


夕刻に合掌造りの民宿に着くと
開放的な縁側にある二部屋にあかりが
灯り
泊り客の家族団欒の姿が
目に飛び込んでくる。
ぎしぎしと木の床を踏んで手を洗いにいくと
水道の水がとても冷たい。


夕飯には山の幸がたっぷり。
茄子の柚子味噌和えがとても美味しく
友人が、そのお味噌はどこのものですかと尋ねると

「う ちでつくったんですよ」
と宿のおかみさん。
お酢の物の胡瓜は、「地這い胡瓜」という巨大な胡瓜で、
これも宿の畑でとれたもの。
「大体、自給自足でやっています」

冬は厳しいでしょうと誰かが言うと
それでも景色が一番美しいのは冬なので
深い雪にもくじけず訪れる観光客が
多いとのこと。

世界遺産に登録されて以来

村に来るお嫁さんの約半数が
もとは観光客として訪れた女性たちらしい。

「どうですか、あなたも来ない?」
と、朗らかなおかみさん。

折りしもテレビのニュースでは、
白川郷で執り行われた
東京出身のお嫁さんと村の男性の結婚式を報じていた。


夕食後、温泉に行った帰り道、
まだ9時半くらいなのに
村はすっかり寝静まった夜更けの雰囲気で、
下駄のカランコロンという音を立てるのも憚られるようだった。

宿も10時消灯だったけれど、

久々の再会に盛り上がった8人の大所帯の私たちは、
ひそひそと小声の小宴を結局1時過ぎまで続けた。

翌朝。
宿の裏手にある川は、深さで色調の違う様々な青色が美しい。
浅葱色というのは、あの川の深いところみたいな色を言うんだろう。

村のあちこちには、
まだ鮮やかな黄緑の稲穂が揺れている。
冬には降ろした雪を流す生命線となる水路には、
冷たく澄んだ水が
静かに勢いよく流れ、

ところどころには大小の鱒が泳いでいる。
民家の軒先には、桶や簾に小豆が干してある。


白川郷を一望できる展望台の説明文によれば、
ユネスコから評価されたのは集落の美しさだけではなく、
押し寄せる「近代化」や商業主義の波に負けず、

村の家屋の伝統的な姿と自然を守り抜いた
住人の努力に対するものでもある。


村の商店は個人経営で、
大きな看板と言えば
昔気質の看板職人の書いたような、

「電子レンジ」や「カラーテ レビ」の看板だけ。

冬の厳しい地方で、伝統的な暮らしを守るにためには苦労も多いだろう。

観光客というのは見物だけして帰っていく、
ある意味では無責任な存在でもある。

観光化の影響で、
風向きなどを考えない「合掌造り風」家屋が建てられた例もあると言う。

青の美しい川の傍らに

ペットボトルが捨てられているのも何本も目にした。
村の方々が「観光化」をどう感じているかは複雑だが、
正味一日にも満たない滞在ですら
自然や生活の美しさや
伝統的な暮らしの知恵に
何度も目を奪われた。


世界遺産というのは、
それを守ればいいだけではなく、
そこから何かに気づくことに意義の一つがあるのかもしれない。

2007年8月15日水曜日

暑い夜にはハンモック

暑くて寝苦しい夜、何が暑いかと言えば自分の体の熱が暑い。
暑い、熱帯夜、noche tropical、トロピカル・ナイト
だんだん極彩色の鳥やホエザルの声が聞こえてくるような気がして
そうか、熱帯の寝具と言えばハンモック。
自分の熱をこもらせず暑さをしのぐ工夫なんだ。

自然を力でねじ伏せて変えるのではなくて
雨の日に傘をさして、必要な大きさ分だけ雨宿り小屋根を持ち歩くように、
かんかん照りの日に日傘をさして、小さな影を持ち歩いてしのぐように、
それぞれ小さく暑さをしのげれば、
冷房を使って町を暑くする悪循環から抜けられるんじゃないか。

とは言うものの、ハンモックに寝るのもコツがいりそうだ。
メキシコで半年住んでいた家の屋上(洗濯物干し場)に
雨ざらしになって色褪せたハンモックがあった。
ドイツ人のイングリッドはよくそこで本を読んでいたけれど、
試してみたら乗りこむのも降りるのも一苦労だった。

ハンモックで寝るのにくたびれてベッドに戻ったら
平らで動かぬ安定感にほっとして、
暑さも気にならずぐっすり眠れるかもしれない。

2007年8月13日月曜日

Historia del Dango

近所のおだんご屋さんの幟が、
布の折れた加減で「焼たんご」と読めた。

タンゴ、アルゼンチン、アコーディオンと連想し、
ピアソラの曲に合わせ、スポットライトを浴びて踊る二人と

海苔醤油のおだんごのミスマッチを思い

三歩進んだところで、はたと思い当たった。

だんご三兄弟。
そうか、あの曲はタンゴだったんだ。

なぜ今まで気づかなかったんだろう。

もしかすると、曲が流行っていた頃は気づいていたのを

時間が経って忘れたのかもしれない。
本を読んで、これはすごいことを知ったと思ったら、

次のページをめくってみると

自分が以前その箇所を読んで「!」と書き込んだ痕跡を見つける
なんていうこともある。
しかし、やっぱりタンゴと思って聴いた覚えはない。なんたる不注意。


気を取り直し、
タンゴ、タンゴと歩きながら考えた。
さっきのスポットライトの二人に

三兄弟の曲に合わせて踊ってもらったらどうなるだろう。

基一のオシロイバナ

琳派の一人、鈴木基一の掛け軸に
三幅一組で一番右が「白粉花」というのがあって、
東京国立博物館の常設展でそれを見た。

夏の夕方と言えばオシロイバナ。
種の中身が白い粉、オシロイ、というわけだが
夕闇に青みがかって浮かび上がる妖艶な赤の色に
甘い香り高く、そういうところからも女性のお化粧とつながるのか
と最近気になっていた花。

オシロイバナを絵で見るのは初めて、どれどれ、と見ると
なんだか葉はキク科の何かみたいだし、花は小さくて目立たないし、
(実物の花が小さくても目立つのは、たくさん一緒に咲くからか?)
あれはほんとうに現在「オシロイバナ」と言われているのと同じ花なのかしら。

ちなみにパネルには英語のタイトルも書いてある。
"Four o'clock"
英語ではオシロイバナをこんな風に呼ぶらしい。
「夕顔」みたいな感じなのだろうか。

2007年8月12日日曜日

車内個人広告

大学でジャズ・ビッグバンドサークルに入っていた頃のある朝のこと。
満員電車の片隅から、聞き覚えのある曲が聞こえてきた。
そのサークルが好んで演奏していた
Thad Jones & Mel Lewis Jazz Orchestraというビッグバンドの一曲。
「音漏れがうるさいぞ」と出所を探す皆の視線をたどっていくと、
バンドの先輩が爆音でMDを聞きながら涼しい顔をして座っていた。
何駅かして少し車内が空いたところで近くにたどりつき、
音、聞こえてますよというと、彼はまた涼しい顔で音量を下げた。

降りた後で聞けば
しれっと「ああ、あれはわざと聞かせてたんだよ。
ああでもしなきゃ、みんなサドメルを知る機会ないでしょ。」

なんとも果敢な草の根宣伝活動、車内個人広告。
朝の満員電車では逆効果にならないといいけれど。

私は、これはいいなという本を電車で読むとき、
わざとカバーをかけないでおくことがある。

つり革片手に読んでいると、
前の席に座った人の視線が本の表紙を確かめることがある。
居合わせた人の目に留まればいいと思う心は、大音量の先輩と同じだろう。

口コミみたいに、
車内で偶然出会った人の目の端、耳の端にとまったところから
じわじわ広がったら面白い。

2007年8月10日金曜日

アンリ・カルティエ・ブレッソン写真展 ~しわしわのジャコメッティ~ 

すでに最終日も近く、老若男女(ベビーカーで寝ている赤ちゃんも)で
混み合った アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真展。

数ある写真の中でも、ジャコメッティの肖像写真シリーズが一番気に入った。

・展示準備をする途中、

線の細いあの独特の人物像の横を、前傾姿勢で歩き回るジャコメッティ。
作品が作者にのりうつってしまったかのような傾きで
彫刻家が自分の作品とすれ違う直前の瞬間。

・ひびだらけの木製の扉の前で、くしゃくしゃの新聞を小脇に抱えた
しわだらけの顔のジャコメッティ。
ジャコメッティの彫刻の表面の質感そのものに見える。

・雨の中、パリの横断歩道をわびしく渡るジャコメッティ。
傘は持っておらず、コートの襟を頭の上にひっぱりあげて雨をしのいでいる。
コートの左肩、襟首(かがめた頭)、右肩がつくる三角形と
二人の子供が手を取りあって渡る印の横断歩道の三角看板が
呼び合っている。

出口付近、字幕もつけず淡々と流されていたフィルムで、
カルティエ・ブレッソンでも
「決定的瞬間」を捉えるためには何枚も何枚も連続して撮り、
そこから唯一の瞬間のコマを選んでいたことを知った。
決定的瞬間を一枚でパチリと捕らえているような錯覚を覚えていたが、
生まれる「辺り」をいくつも撮ることで、
「その瞬間」を逃さず捕らえていたのだった。

雨の横断歩道を渡るしわしわジャコメッティの写真のネガもうつっていて、
看板が切れている数枚は選ばれず
三角看板がきれいに写っているコマ1つに赤い丸がつけられていた。

2007年8月9日木曜日

文字とことばがつながるとき

ラッシュの終わった頃の朝の電車にて。

4歳くらいの女の子と、60歳近くに見える通勤途中の…お祖父さん?
女の子は、男性が広げていた日経新聞をのぞきこみ、
ひらがなだけ拾って読み始めた。
そのうち、意味のある音の並びがきこえる。

「ふ」「さ」「わ」「し」「い」

うーん…ふさわしい、って読めても、ぴんとこないだろうな。
男性は一計を案じたようだ。自分の携帯電話を取り出し、
女の子にとって意味のある言葉を、
ひらがなで入力して見せている。

「し」 「ぶ」 「や」 「しぶや!」
女の子の顔がぱっと明るくなる。
「つぎ、しぶやにつく?」
居眠りしていた乗客が「え、もう渋谷」とキョロキョロ。
まだ明大前。
そこで男性、到着時間も計算した上で
今度は別の駅名を入力。

「し」「も」「き」「た」「じゃ」「わ」
「しもきたざわだよ。」
「しもきたじゃわって、なあに?」
「次の駅だよ。ほら」
アナウンス:「次は~下北沢、下北沢」
「ほんとだ!」
「ね。」
文字とことばがつながる驚き、喜びの光景を前にして、
読もうとしていた本の内容がちっとも頭に入らなかったのは言うまでもない。

       (2007年6月6日)

2007年8月8日水曜日

モエレ沼公園 ~風の巣、海のへそ~

モエレ沼公園は風の巣だった。

滑走路みたいな斜面を駆け上がると、頂上にはびうびゆう風が吹き抜けていた。

前を走っていたおじいさんは巧く飛び立ったのか、姿が見えない。
メキシコのテオティワカンを思い出すピラミッドの階段を上ると

その頂上はまるで風の巣。

試しに広げた若草色のショールは
わっと風に膨らんでパラシュートになって 飛んで行ってしまいそうで、 こわいくらいだった。
たっぷり二か月分は風を浴びる。

風に疲れ、
ガラスのピラミッドに入って

陽が沈むのを眺めていると、
林の方へ、二人、また二人と、
人が吸い込まれて消えていく。

何があるんだろうねえ、と言いながら風の強い外に出て行くと
噴水が見えた。

ただの噴水ではない。


轟音をたてながら渦を巻いて
大量の水が噴出している。
水があふれてくると、あふれ出した水は周りのブロックに砕け、
中心の渦の動きにつられて、しだいに引く波寄せる波が生まれる。


目をつぶるとゴー ザーン ザーンと、砕ける海の波。
海のへそには、きっとこんな渦があるに違いない、

そう思えてくる。

海ができあがると、
急に渦の噴出しが止まった。

とっぷり暮れた夜のモエレ沼に広がったのは静寂ではなく
寄せては返す波の音、

そしてモエレ沼からの蛙の合唱。
びゅうびゅう風を受けながら耳を澄ましていると

水が引き始め、
小さな噴水、

霧の噴水へと移りかわり、
海が引いていった。

空には細くて大きな三日月、大げさに振り向くと、
三脚を立てたカメラのおじさんが夜空にカメラを向けた。
しめしめ。


見とれていた海が終わると
急に寒さが身にしみて
もうじっとしてはいられず
冷え切ってゴワゴワの腿を大きく動かしながらバス停まで走った。

2007年8月7日火曜日

家康敗走

去年の八月に見たある家康の図を思い出し、絵葉書を取り出した。
名古屋にいる友人を訪ねた折に、徳川美術館で見たもの。
戦の支度も完全に解かないままに腰掛に座り、
考えこむように左手をあごに当て、左足を組み、
苦々しいような不甲斐ないような口元に
眼を見開き遠くを見据えている。

三方ヶ原の戦いで武田軍に負け帰った後、
自らの負け姿を絵師に描かせ、生涯傍らに置いたものらしい。
悔しさを忘れずに精進する意味と、
いくら勢力を強め栄華を誇っても、ひとたび失敗すればどうなるか、
肝に命ずる意味があったのだろう。

大きくなる人はやっぱり違う、という感慨を覚えたのを思い出すが、
今は絵師のことが気になる。
おそらく家康は絵の目的を説明せず「描け」とだけ命じたに違いない。
負け姿を描けというのだから、勇敢に描くわけにもいかない。
かと言って、あまりみすぼらしく描くわけにもいかない。

への字に歪んだ口には、苦々しく下唇を噛んだ強い歯がのぞき
呆然と空ろにも見える眼は、
次は負けてなるものかという強い闘志をも感じさせる。

見れば見るほど、絵師の機知と腕に感服する。

2007年8月6日月曜日

ささやかな引越し

「ごみ捨て禁止 大田区」 という小さな看板を見た。
これだけでは取り立てて何か言うほどのことでもない。
しかし、この看板があるのは、
大田区までは電車で一時間ほどかかる都内某市の路上。
店などで、外国の「禁煙」や「トイレ」の看板を使っているの
見たことはあるけれど、
これは何ともささやかな引越しだ。

誰かが、引越しの際に看板も一緒に持って来たのか、
ごみ捨て禁止看板の廃材再利用なのか。

「大田区」と書いてあるのは柴犬の目の高さくらいで
何度も通った道なのに、今までちっとも気づかなかった。
靴擦れを気にして足元に意識が向いていなかったら
今回も気づかなかっただろう。

いつからあったのか、看板は日に焼けてすっかり色褪せている。
(引っ越してきたときにはすでに色褪せていた可能性もある)
自分が大田区から来たことを、看板も覚えているかどうか。

2007年8月5日日曜日

江戸川花火

駅からしばらく歩くと、左手の道の奥に土手が見えた。
上がってみると、
川沿いのひろびろした草はらに
たくさんの人。

人で埋め尽くされているというほどではなく、ちょうどいい。

打ち上げ会場から少し離れた
草の上に座って
川風に吹かれ、
おにぎりを頬張りながら
日の入りを待つ。

早く暗くならないかと急かされる今日の太陽は、
いつもより大きい。


空が暗くなり、
風でよく聞き取れないアナウンスが終わると、
とうとう打ち上げが始まった。
歓声と拍手。
ざわめきの後、一瞬静かになり、
ひたすら夜空の花火に見とれる。


華やかな連発花火が一段落すると
風下にタマシイのような形の煙が列をなして漂い、
流れてゆくのが見える。
と、よそ見をする間もなく、
また華やかな打ち上げが始まる。

適度にばらけて座る見物客の感嘆は
時折シンクロする。

見事!というときの盛り上がり。
赤いハート型がきれいに広がったときの、
アラアラ…と 何故か照れたようなざわめき。

すべての打ち上げが終わったときに
草はらのあちこちから起きた拍手は、
川風に負けず、
花火師たちの耳にも届いただろうか。


2007年8月4日土曜日

歌とも節とも違う、太古の声 (夏の文学教室①)

先日、「アフンルパル通信」発行者の吉成さんにいただいた券で
「夏の文学教室-作家の誕生」を聞きに行った。
その日(7月27日)に講演した顔ぶれは
詩人吉増剛造さん、作家堀江敏幸さん、パンクで作家の町田康さん。

吉増さんは札幌でお会いしたときと同じく、草緑色を思わせる
柔らかい空気を連れて現れた。
今春亡くなった奄美の作家、島尾ミホさんをめぐって、
また、初めの詩、
そして「書き終えると、手が止まった」詩についての
お話だった。

端々で口にのぼったのが、
何か強い衝撃を受けたことや、印象深い光景について、

それを書いているうちに、そのことがどういうことだったのか「つかむ」
という感覚。

海坂(うなさか)という言葉の紹介もあった。
折口信夫さんから教わった言葉だそうだ。
沖へ出て行く船をずっと見ていると、水平線に向かって
少しずつ船の姿が小さくなり、あるときにふっと
船が視界から消える場所がある。
地球が丸いからそういうことになるのだけれど、
その「坂」を「海坂」といった。
太陽は、夕日になり、そして沈むと、海坂の向こうの世界をあたため
そしてまた、朝になると戻っていらっしゃる。
そんな捉え方があったらしい。

講演の最後に「アフンルパル通信」第i号巻頭に寄せた詩
「Poil=ポワル=毛、アフンルパル」の朗読があった。
(これこそが、「書き終えると、手が止まった」詩)

その詩は難解で、正直なところ数度読んでもなかなか「入って」こなかった。
しかし、詩人自らの朗読を聞いて、
この詩が持つ「うねり」ようなものがわかった。

台風のときの雨の、突如として強まり、かと思えばふっと弱まるような、
渦の勢いのような、不穏な、しかしどこか心躍るような、
不思議な感覚。

吉増さんは、島尾ミホさんの声の録音を流し、
「歌とも節とも違う、太古の声の"甘さ"のようなものがある声ですね」
とおっしゃった。
吉増さんの朗読も、定まった旋律も拍もない、
太古の「うた」のようなものを思わせた。