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2012年9月16日日曜日

ぷてぃんてたはどこにいる?

三年ぶりにやっと会えたヒメナは、また新たな作品を刊行していて、 
そして今や、ふたりの女の子のお母さんだった。

ルシーアは幼稚園に通い始めたばかりで、
部屋を案内してくれたり、踊ってみせてくれたり、ぴょんぴょん跳ねたり、何とも活発。

おしゃべりざかりなのだけれど、
まだ舌足らずで、
"s"や "r"の発音が難しいらしく、"t"で代用している。
プリンセサ[おひめさま]は、ぷてぃんてた。

"t"の音だらけのスペイン語は、私にとっては暗号のようで
ルシーアのおはなしを"聞き解く" には
状況の文脈と、かのじょの仕草をじっくり見る必要があった。


いっぽうのイサベルは、ようやくつかまりだちができるぐらい。

ヒメナが "?Dónde está Isabel?"(イサベルはどこにいる?)と優しく言うと、
イサベルはちいさな両手を顔に寄せ、「いない、いない」のしぐさをする。

"?Dónde está?" と、再びヒメナ。
イサベルの手は、まだ顔のあたりにある。

そして、ぱっとどける。
"!Ahí está!"  そこにいる!と、ヒメナ。
イサベルの顔が、ぱあっと明るくなる。



ヒメナの新刊は、こんどは小説ではなく童話。
メキシコの神話と現代メキシコの現実を重ねあわせ、
こどもたちが生き抜く知恵をそっとささやいて教えるような作品らしい。
何ということか、手に入れそびれて帰って来てしまった!

2012年8月10日金曜日

サボテン命名の謎

旦先生があちこちに養子に出したサボテンたちにつけられた名は、
なぜ女性を思わせる名前ばかりなのか?

スペイン語だとcacto, cactusは男性名詞。
ポルトガル語だと違うのか?なんて思っていながら、調べずにいた。

が、今朝、謎が解けた。(たぶん)

あんずジャムを塗ったトーストを食べながら、
オレンジ色の鉢の「ムケカ」に、ふと目をやると
あれ?
何かいつもと違う。
じっくり見たら、手の小指の爪ほどに、ぼこ、と何かが出ている。

ぱぱぱぱ、と記憶の蔓が自然にたどられていく。

声の記憶。


「サボテンてさ、どんどんふえるんだよー

 ぼこ、っていうのが出て、その、ぼこ、っていうのをわけてうえると、

 サボテンになるんだよ

 そうやって、ぼこ、っていうのができるたびにわけていったら

 400鉢」


「よんひゃっぱち」という突拍子もない数(と、そのひょうきんな音)にあのとき、
電車のなかで、つい大笑いしたのだった。
横隔膜の記憶。


そこから一気に推論。
サボテンには、母のイメージが重なるのだろう。
それから、もしかすると
男にとって「予測不能な、手に負えない、つい振り回されてしまう」相手である
女のイメージも。

(メニーナのほうも、大きな鉢にうつしてやらないといけない。
 あらためてよく見ると、いつのまにやらムケカとの差は驚くほどになっている。)

2012年4月14日土曜日

門内幸恵さんの絵画展2

現在、明治大学生田キャンパス図書館1階
Gallery Zeroで、画家・門内幸恵さんの絵画展が開かれています。

昨日、門内幸恵さんと、編集者の沼尻賢治さん(+司会・旦敬介さん)
によるトークイベントにあわせて、会場に行ってきました。
いろいろ面白い話が聞けたのですが、
そのうち、まずひとつの話題を、記憶に基づいて再構成してみます。

----
「挿絵を描くとき、
 水彩、クレヨン、油絵など、さまざまなメディアがあるが
 どうやって選ぶのか?」という質問に対して。

普段、画家として自分で絵を描くときには、油絵がメイン。

挿絵の仕事で、締切がある場合には、
「絵を乾かす時間」をどれほど取れるかという問題に
どんな画材を使うか、その選択は大いに左右される。

また、挿絵の場合、
文章を読んで、読んで、読んで、イメージを定めてから
(このプロセスに、挿絵を描く作業全体の80%の時間をつぎこむという)
絵に「おこして」いくのだけれど、
文章の特徴、たとえば力づよさ、あるいはみずみずしさに応じて
「クレヨンが合うだろう」とか「水彩が合うだろう」と、選ぶ。

そして。

ANA機内誌「翼の王国」での以前の連載小説、
旦敬介さんの「旅する理由」のときには
クレヨンを使って挿絵を描いていたのだけれど、

色を混ぜると、どうしても濁る。
混ぜられないということは、使える色は、限られる。
すると、描きながら、
ああ、前もこの色の組み合せをつかった、ということが起きてくる。

こうした色の制限に、不自由さを感じるようになった。

同じく「翼の王国」で現在連載中の
六月まどかさん「あるこほーるの夢」では、
それまであまり使ってこなかった水彩を試してみた。
すると、思いのほか、自由に描ける。
クレヨンと違って、イメージする色がつくれるし、
油絵で慣れている筆使い、クレヨンで身につけた色使いを活かしつつ
ぼかし、にじみなど、水彩独特の効果も出せる。

さらに、この連載挿絵の仕事が、
画家としての表現活動にも変化をもたらした。

これまでの油絵作品では、画面全体をマットに仕上げることがほとんどで
筆の痕跡が見えるようでは、許せない、
筆の跡が見えなくなるまで、塗りこみ、塗り上げる。そんなやり方だった。
が、この油絵表現で、行きづまりを感じるようにもなっていた。
やりたいことと、やっていることが、矛盾しているように感じていた。

そんなとき、連載の挿絵を水彩で描くようになり
挿絵のほかにも、
何枚も何枚も、水彩画を描いた。

水彩の場合、
油絵と違って、塗り直しが効かない。
それは難しさでもあるが醍醐味でもある。

その「塗り直しが効かない」という感覚(あるいは、「姿勢」?)を
そのまま、油彩に応用して、描いてみた。

そうして描いたのが、今回展示してある油絵の作品群。

- - -

確かに、今回の展示作品は、
これまでの作品 (以下リンクから画像が見られます)
と、かなり違う。
以前の作品も好きだけど、
新しいものには、
門内さんの持っているespontáneaな部分が、よりうまく出ているように思える。


今までどこかで彼女の作品を目にしたことがあるかたも、
見たことがないかたも、
生田の坂道をのぼって
(あるいは、向ヶ丘遊園駅からバスに乗って)
(あるいは、生田キャンパスに通っているかたは、図書館の入口から左へ寄り道して)
会場に足を運んでみてください。

詳細は以下に。

2012年3月31日土曜日

西林素子企画・構成・振付「Nocturno」

2012年6月、日暮里のd-倉庫にて、

西林素子企画・構成・振付によるダンス・パフォーマンス

"Nocturno” の公演があります。(3月1日より、予約受付中)


このblogでも、何度か彼女が出演したダンス公演の感想を書いたことがありますが

今回も、期待が高まります。


ダンスやステージパフォーマンスに関心がある人にはもちろん、

これまで特に興味がなかった人にも、ぜひおすすめしたいステージです。

どうしてか。

まずは、ちらりとご覧ください。

"Nocturno"にも出演する西林素子さん、蔦村緒里江さんが

もう一人のダンサー松田尚子さんと共に組んだ YakaYaka-wokaの

映像記録がyou-tubeで見られるようになっています。

(平面になった映像でも十分いいですが、実物はもちろん、さらにattractiveです)

http://www.yakayaka-woka.com/official/Movie.html


"Noturno"詳細は、西林素子HP内、以下のページをご覧ください。

http://www.motokonishibayashi.com/web/news/entori/2012/3/12_Nokuturnochiketto_yu_yue_kai_shi.html




門内幸恵さんの絵画展

2005年メキシコ留学以来の大切な友人である
画家・門内幸恵さんの絵画展が、
明治大学のGallery Zeroで、始まりました。

「エッセンスに向かって ―絵から文へ、文から絵へ―」と題して、
<文章のために彼女が描いた「挿画」と
 彼女の絵に触発されて書かれた「挿文」を並べて展示する>という企画です。

主催は、2008年から2010年にかけて
ANA機内紙「翼の王国」の連載小説『旅する理由』で
幸恵さんとコラボレートしていた、作家・翻訳家の旦敬介さんの研究室。

2011年同誌の連載小説、
六月まどかさんの『あるこほーるの夢』の挿画も、
幸恵さんが手がけていたとのこと。

展覧会の協力は、「翼の王国」、そして
くぼたのぞみさん、六月まどかさん、温又柔さん、旦敬介さんと、私。

昨年、私が二度にわたって参加した詩の朗読イベント「ことばのポトラック 」
(第1回:3月に開催/第3回「ことばの橋を渡って」:7月に開催、
 いずれもサラヴァ東京)で詩を読んだ際には、
読み上げるテキストの「表紙」として掲げるべく、
幸恵さんに依頼して、素敵な絵をおくってもらいました。

(ちなみに、「ことばの橋を渡って」に参加し温又柔さんと
そして「ことばのポトラック」すべての撮影を手掛けている大川景子さんが
この「表紙」の絵に気づいて、ことばをかけてくれたことを思い出します)


絵画展の会期は3月31日から4月26日。
公式のお知らせや会場へのアクセスは、以下のページで見られます。

4月13日(金)の17時半~18時半には、ギャラリートークもあるそうです。


2011年8月31日水曜日

あああ古川さんの映像が見られる…

7月9日、Saravah東京で行われた古川日出男さんの
ステージ(と、くくっていいのか、ご本人は「イベント」とおっしゃっていました)
「東へ北へ」のもようが、一部、Youtubeで見られるようになりました。

お知らせをいただいて、
あああ、と、ことばにならない声をあげてしまいました。

つい先日も、夜に湯をざばざば浴びながら
あのメロディー
 (『新潮』に発表された
 「馬たちよ、それでも光は無垢で」
 を読んでまず、存在を知った、あのメロディー)
を無言で思い出していたところでした。

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古川日出男×小島ケイタニーラブ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京

http://www.youtube.com/watch?v=xB5TJxWz95Y

古川日出男×黒田育世×松本じろ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京
http://www.youtube.com/watch?v=SEP1S4YCaoU&feature=related

古川日出男×黒田育世×松本じろ×小島ケイタニーラブ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京
http://www.youtube.com/watch?v=_bEp4h2hWY8
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2011年8月4日木曜日

40年

方位磁石がほしくて文房具店に行ったら、
「店じまいセール」の黄色い紙が、店内のあちこちに掲げてあるのが見えて
どきっとした。
ここは、年がら年じゅう「店じまいセール」をしているようなお店とは違う。

武蔵小金井駅の北口、「長崎屋」の三階に入っている小さな文房具店。
店主のおじさんは、
文房具が好きで、お客さんと話すのが好きで、
という感じのにじみでているようなかた。

移転するんですか?ときいてみたら、

ほんとうにお店をたたんでしまうんですよ、と。


40年、お店をやっていたからね、さびしいですよ。


近くに、売り場面積の大きな、
品ぞろえのいい文房具店が出店したから?
そのお店のはいっている新しくて大きい商業施設へ人の流れが向いてしまったから?
「なぜ」と聞いても、この場合には取り返しのつかないことだから、聞くのはやめた。


店じまいセールは、全品3割引き、利益はなし。
ただ、店にある文房具を、それを使って命をふきこむひとへ渡すだけ。

今すぐには必要でない替えインクも買ってみた。
レジに表示される合計金額の数字がぱっと下がるのを見て
なんだか申し訳ないような気分になる。

でも、どうせ買うならば、応援したいと思うお店で買いたい。
もう、取り返しはつかないのだけれど。


また、何か必要なものがあったら、来てくださいね。


店じまいセールは、今月の末まで。
それが終わったら、ほんとうの店じまい。


安いから買う、という行動パターンが
あちこちで、理不尽な事態を生んできた・生んでいるように思える。

巨大な仕組みを変える可能性があるのは
トップダウン式のやりかたよりも
むしろ、小さな動きの集積による、うねりの変化かもしれない。


2011年6月23日木曜日

comunicar, pensar y sentir

マリオ・バルガス=リョサ氏の講演(6月22日)を聴きに行きました。

そのうちどこかで講演全文の訳を読めるようになるのでは?
と、勝手に期待しているのですが、
まずは書き取れた範囲で、自分にとって「響いた」ことばをいくつか抜き書きします。


―文学(literatura)が娯楽(diversión)であるという考えには賛同しない、
文学は、わたしたちの生き方(vida)に痕跡・影響(huella)を残すもの。

人間には、ことばという授かりもの(el don de la palabra)がある。
ことばによって可能になるのは、
・伝えること(comunicar)。
 細かいニュアンス(matices)も表現し相手に伝えるにはその言語を使いこなすことが必要
・考えること(pensar)。より明晰に(con claridad)考えること。
・感じること(sentir)。より深いかたちで、感じること。


―民主主義(democracia)は、
社会のシステムとして最良のものではないが、
それでも、不正・不当さの度合いが最もすくない選択肢である。

民主主義社会が機能するために
自由で独立した個々人(individuos libres e independientes)に求められるのは
参加すること(participación)、
批判精神(espíritu crítico)を持つこと。

文学は、現実の世界は
わたしたちが想像することのできる世界よりも
ずっと下(está por debajo de...)にあるということを、教えてくれ、
いまある現実のものごとに対して、安易に従わない態度(inconformidad)
をとることを可能にする。

すべての独裁的な権力(dictadura)は
「いまの生き方(la vida)は、あるがままでよく、 なにも変える必要がない」
と信じ込ませようとするものだが
文学は、それが偽り(falso )であることを、わたしたちに気づかせてくれる。


2011年4月7日木曜日

「音と言葉と身体の景色」3月27日 (3)

今朝にひき続き、
「音と言葉と身体の景色 vol. 6」について。

書かずにいられないのは、
原発の事故が起きてから、いま強く感じている、やり場のない気持ちと
先日上演された第二作目、『椅子と伝説』に
ひびきあうところがあったため。

不条理演劇が書かれ上演されるのは
人間の社会に、現実に、不条理なことが起きるからなんじゃないか、
(乱暴な言い方をすれば) そう、客席で思った。

しかも、
作品の前半では、
いわれのない疑いを向けられた「男」と、彼を糾弾する者たちのやりとりが中心で
「男」に対して、「なぜ、こうやって切り返さないのか」と
(無駄とは知りながら)念じたりする余裕が、いくらか、あったのが
後半、
舞台上の「虚構」と、客席にいる自分の「現実」が、くっきりとつながってしまって
めまいがする思いだった。

「俺の目を刺したのは、だれだ」
「何故、止めなかった」

「そんなことが起きるなんて、思わなかったんだ」

「責任逃れをするわけじゃないんだ、
しかし、殺すつもりはなかったんだ」

(台詞は、私の記憶のなかで変化してしまっているかもしれません)

危害を加えるつもりはなかったのに、
そんなことが起きるなんて予想もしていなかったのに、
受動的な、無自覚的な、加害者となってしまうこと、
その、やりきれなさ。
舞台上ではなく、それが現実にも、起きていることに。

舞台は一旦終わるが、現実はここにある。



以下は、私と同じように、初めて公演を見た人たちへ。
「身体の景色」のページに、謎の、「ワンピースの女」についての
ヒントかもしれない、と思う記述を見つけました。

「音と言葉と身体の景色」3月27日 (2)

先日(4月2日)の続きです。

要するに、
『舞え舞えかたつむり』はたいへんなテーマを扱ったもので、
見るのに相当のエネルギーが要りましたが
それでも見に行ってよかった、と思うのは、

まず、私にとってあの舞台が、
「こたえ」ではなくて、「問い」を発するものだったから、
なのだと思います。

 「いま必要なのは
  断言することばではなく、問いかけることばだ」

と言ったのは、誰だったか、、、
(ごく最近、日本語の音として聞いたのかもしれないし、
あるいは少し前に、スペイン語の文字として目にしたのかもしれません…)

それから、深刻な主題、深刻な展開を、真剣に追って見ていると
「脳が緊張状態になっている」ような感覚を持つのですが
あの舞台では、
深刻な中に突然、可笑しなひとが出てきたり、
可笑しな動きが混ざったり、
場違いな懐メロがかかったりして
(しかも、BGMとしてかかるのじゃなくて、音楽が役者を動かし・躍らせ舞台を支配する)
一瞬 「え!」 と思い、
それから、ふっと、脳と全身の緊張が解けて
全身ガチガチになりかけて(おそらく、登場人物に自分を同化しすぎて)いたのが
外から見ているちょっと冷静な感覚を取り戻せる。
それで、問いは受け止め、かつ、打ちのめされずに、いられる、のか。

なんだか、考えすぎのようですが
一作目については、こんなことを考えました。




2011年4月4日月曜日

ゆるカワ よりも断然 フルカワ

電車の吊り広告(まだ、だいぶスカスカだ)に
ファッション誌の「ゆるカワなんとか」特集、という文字を見かけた
そのとき、自分の手元には、古川日出男さんの本。

ゆるカワを目指す、なんていうのもひとつの道だけど
私としては断然、フルカワさんの本を読みながら
しなやかに逞しくなってゆくほうが、ずっと魅力的だと思う。
 (もとより、かわいさを目指すトシでもないというのは置いておいて。)

古川さんの作品を読みながら思うのは
それを通じて自分に起きてゆく変化。

アスレチックのような感じのものもあり (楽しみながら野生の勘を取り戻していく)
筋トレのような感じのものもあり (必要な強さを、鍛えて、身に着けていく)
手ぶらで土の地面を歩いていくような感じのものもあり (五感の鮮やかさが自然と取り戻される)
奇跡って、起きるんだったね、と思い直すよう誘われる感じのものもあり
世界の隠された部分を見る洞察力を、呼びさまされるものもあり

これから出会うであろうゆるカワな女の子たちに、
いずれ、フルカワさんの本をすすめてみようか。

2011年4月2日土曜日

「音と言葉と身体の景色」3月27日

3月27日、「ことばのポトラック」の会場を出たあとに
日暮里へ、「音と言葉と身体の景色」の演劇を見に行きました。
「身体の景色」の岡野さんと共に演出を手掛けた田中君、
誘ってくれて、ありがとう。おかげで見逃さずにすみました。

別役実さん原作の戯曲の二本立て、
濃い一時間半でした。

作品の"意味" を理解しようとしなくても、いいんだ、という声もありますが
私が思うには、投げかけられているものを見過ごしたらもったいない、
ただ、唯一の正解としての"みせる側の意図" に迫ろうとするような見方ではなくて
観客席で見ていた自分にとって、そのとき、その場で、どんな意味がうまれたのか
ということを観察したり、そこからあれこれ考えをめぐらせたりすることが
作品を、しかと受け止めることになるのじゃないか。

そのようなスタンスで、
以下、田中君に宛てたコメントのようなつもりで
作品を見た私に生じたあれこれを書いてみます。
(見てからほぼ一週間経った今も、
 まだ 頭のなかの"濁り" のようなものが澄み切らないのですが)

まず今夜は、一作目について。

・『舞え舞えかたつむり』

実際に起きた殺人事件を題材にした作品ということで
はじめ、少し身構えてしまいました。
生身の人間が生きた苦しみ、痛み、悲しみを、
第三者が「作品」として取り上げ、演じて、また別の人に見せる、というのは、
生半可な覚悟ではできないことだと思うから。

けれど、
夫を殺した妻のことばが、
取調官の口からも、
そして殺された夫か警官かはたまた蠅なのか判然としないおかしな男の口からも出てきて、
声に重なる声が錯綜し、
調書を印刷した紙がばらまかれ、錯綜し、並べられ、また錯綜するのを見、聞き、するなかで

始まる前に自分が感じていた "気おくれ"あるいは警戒心のようなものは、拭い去られました。
舞台から、問い のようなものが、次々と、発せられているように感じたから。

警察官が調べて跡付ける「事件の動機」に対する
無機質な文章として書かれるような「事件の筋書」に対する
そうした筋道をつけて「動機を解明する」ことそのものに対する
強力な問い
 それで、何が晴れる?
 そんな問いは、"調べられて" いる本人が、
何度も何度も何度も繰り返したことなのに、
 それを第三者が問うて、
 手に入る手がかりだけを基に、解釈をひねり出して、どうなる?
また、
 誰が "当事者"なのか?
あるいは、
 誰が"当事者でない"のか?
つまり、
 どんな人間が、あのような絶望を前に、耐えることができるのか?
 理由がわからないことに対して、頭を抱えたのは、誰なのか?
 「なぜ殺害を思い立ったのか」、「いつ」、と問いかけているのは、誰なのか?
そして、
 答えているのは、誰なのか?
また、
 「真相」の解明など、誰にできるのか?
そもそも、
 唯一の「真相」 があるという考えも、虚構なのじゃないか、、、?

(第二作『椅子と伝説』 に続く予定)







2011年3月8日火曜日

逞しさ

週末に、二日続けて
メキシコで遭ったひったくり被害(2008年夏)についてしゃべる機会があった。

(しゃべる機会と言っても、公にではなく、ともだちとの会話のなかでのことで
両日とも、メキシコへ留学したときのともだちに会ったのだった)

ひったくりに遭ったときの状況について。
とられたものについて。
運悪く、ひとに借りていたものを二点も持っていて、
(デジカメと、貴重な雑誌)
それもとられてしまったこと。
私がかばんを取られまいと抵抗したために、ひどく蹴りをいれられたこと、
被害届を出しに警察に行ったときのこと、、、


日曜日、二回目にこのことをしゃべったときに、
前日は思い出さなかったあることを思い出した。

家に戻ると、
家主のセシリアの友達のおじさんが、
家の修繕をてつだいに来たらしく、玄関で作業をしていた。

「元気かい?」とお決まりの挨拶をされ、

がっくりしながら「まあまあです」と答え、

「実はこんなことがあって、、、
 (中略)
 あんな目に遭ったのは、初めてでした、、、」

と話すと、おじさんは言った。

「どんなことでも、初めてというのがあるからね。」



この話をしたら、留学時代のともだちは口を揃えて
「おお~、さすがメキシコだね!」

受け取りようによっては、
おじさんのコメントは皮肉にも聞こえるかもしれない。
でもそのことばを聞いて、当時の私は、確実に、力を取り戻した。

くよくよ考えずに、
自分が知らず知らずのうちに油断していたことを前向きに振り返って、
「二度目」には決して遭わないように暮らそう、という気になった。

私がメキシコに感じる魅力のひとつは、
あのおじさんの返事に凝縮されているようにも思える。

いやな目にあったり、つらい状況にたたされたりしても
それをひとまず受け入れた上で、先に進もうとする逞しさ、
とでも言ったらいいだろうか。


そのような逞しさを持ったひとたちは、
世界中に、そしてもちろん日本にもいるだろうし、
私は、たまたま、それをメキシコで強烈に感じただけなのだろうけれど。

2011年2月3日木曜日

二人展「夢みるいのち」(2/26~3/6)




友人の長野はなさんから、
陶芸家・ぺくにょんすさんとの二人展「夢みるいのち」のお知らせが届きました。
大森にあるギャラリーFirst Light で2/26~ 3/6 にて。

お二人の作品が響きあっていて、わー、と思いました。
出会いは「常滑アートサファリ」でしょうか?(推理)


はなちゃんのカラフルな作品は
でも見ることができます。


ギャラリーへのアクセスはこちらから。




2011年1月16日日曜日

Felicidades!



新聞記事を書くあなたと、
フラメンコを踊るあなたのご結婚を祝して。
おめでとう!


2010年12月25日土曜日

『ゴッドスター』

古川日出男さんの中編小説『ゴッドスター』は、
今年の「新刊」ではないけれど今年文庫化されたもので、
新しく出た本のなかで私が読むことのできた、数少ない本の一冊です。
というか、
本当は「面白いもの断ち」をしていたはずの時期に
つい買ってしまい、つい読み始めてしまい、
ぐいぐい引き込まれて、途中で閉じることができなかった本です。

私の記憶が確かであれば、
「この小説に解釈はいらない」と著者が語っていたそうですが、

それはきっと、『ゴッドスター』が
読者をひとつの体験に巻き込むような種類の小説だということなのだろうと思います。

「体験に巻き込む」というのは、

読んでいる私が、主人公と一緒になって
聞いているはずのに聞こえていない音に耳をすまし
見ているはずなのに見えていないものに目を向け、
そのなかで毎日生きているはずなのに、よく考えてもみなかった仕組みについて考えるように
一つ一つの動作、一つ一つのことばを丁寧に捉えなおすように
自然に仕向けられていて、

そうして感度を高められる読者=私の感覚は、
小説のなかの世界に対してのみ有効であるというわけではなくて、
読んでいるときに自分が居る部屋の空間のなかにも、部屋の外に広がる世界にも向けられて、
それどころか、読み終わった後にも、
その感覚が鋭くなったままである、というようなこと。

その意味では、
一般的な小説よりも、詩に近いような本であるようにも思います。


2010年12月20日月曜日

舟唄

息を吸いに、走りに、たびたび行く公園はとても広くて、
管楽器を練習したりギターを弾きながら歌を練習したりしているひとが
いることは、さしてめずらしいことではないのですが、
今日聞こえてきたのは特別なものでした。

舟唄、でしょうか。
おじいさんの深くてつややかで息の長い歌声があたりに響きわたり、

船着場で到着を待っていて、まだ姿は見えないが遠く舟唄が聞こえてくる、

そんな情景が、一瞬のうちに広がるようでした。








2010年12月16日木曜日

「見てくれなかったなあ~」

松涛の路上で、斜め前を歩いていた小2くらいの男の子がひとり、
大きな声で

「あ~あ、オレの逆ランドセル、
誰も見てくれなかったなあ~」

見れば、ランドセルを上下逆に背負っている。

あ、 
と、男の子の視線と私の視線が交差したので
 (なぜ振り返ったんだろう、あの子は。
 と考えてみて、今日はブーツを履いていたので
 靴音で気がついたらしいことに思い当たった)

「おもしろいこと、かんがえたね」

と声をかけてみたら、

「おもしろくなんか、ないよ。
ただ、逆にしょってるだけ。
あと、上にカサもさしたけどね。」

たしかに、うなじの辺りにきているランドセルの底部には
閉じてきちんと巻かれた傘が一文字につきささっている。
 (いま、その仕組みを考えてみると、
 べろんとしたフタ部分を留める金具部分と
 ランドセル本体の間にできる隙間を利用したのだろう)

「誰か、見てくれないかなあ」ではなくて
「誰も、見てくれなかったなあ~」というのが、巧いなあ。

2010年11月30日火曜日

走りながら教えてもらったこと

ある人から、一緒に走りながら、教えてもらったこと。

息があがったら深く呼吸をして整えるんだ 自分でコントロールするんだよ
かるく歌いながら走るのもいいし
音楽を聴いて走るのもいい、
気分がのるだけじゃなくて、自分の息があがっていることを意識しないしね

腕はそんなに振らなくてもいい、
今はゆっくり走っているんだから

足はそんなにあげなくても、
出した足を、ただ遠くに運べばいい


最後は必ず、スピードをあげて終える(cerrar)んだ
どんなに疲れていても
あの目印まで全力疾走と決めて、いくんだよ




目印はもう少し遠くにのばしてしまいましたが
走るときも、そうでないときも、教えてくれたことをくり返し、思い出しています。



2010年11月13日土曜日

Yaka Yaka- Woka, "Ladybug"

今月、ひとつだけの贅沢。
これだけは、何がなんでも、見逃せませんでした。

とてつもなくかっこよいダンサーである友人・西林素子さんが出演する
ダンサー三人による Yaka Yaka- Woka のステージを見てきました。

ダンスと、映像 (そして音楽) を組み合わせたステージで
曲が変わるごとにガラリと違う味で、1時間強のあいだ、楽しみっぱなし。
ひとことで言えば 「目が釘付けになる面白さ」 でした。

が、それでは、自分が楽しんだだけで終わりなので
次回公演(2011年2月とのこと)を、
ひとりでも多くのひとに、間近で見てもらえたら素晴らしいという思いで

今回見ていないかたがたに
小難しいものだったかのような印象をうんでしまう危険を承知で書くとすれば…


身体表現のさまざまな可能性を追求した舞台なのだろうと、思いました。
間違いなく、見ていて楽しいダンスのショーなのに、
<からだ>には、これだけ多くの顔があるものか、ということに気づかされます。

デジタルの信号と化した世界と対比された、血の通った肉体。
猫のような仕草を取り入れたように見えた、動物的な肢体。
日常の生活のなかで、わたしたちが普段自然に動かしている、からだ。
その動きによって、コミュニケーションの道具となっているような身体。
欲望の対象となり消費される商品として演出される美しいカラダ。
まぶしいファッションを魅力的にみせるボディー。
湧き出る感情の表現手段としての、体。
リズムと、あるいはメロディーと一体となる、体。

など、など。

三人のダンサーもそれぞれ違う味を持っていて、
ひとりひとりに忘れられない一場面がありました。

嶌村さんは、ステージ脇の鉄棒をつかっていた曲での、妖しく、哀しく、逞しい美しさ。
松田さんは、ルイ・アームストロングみたいな声の曲にあわせた、体をつきうごかすような、
あふれる喜び (歌い手が見たら、嬉しいに違いありません)。
素子は、ウクレレ版「星に願いを」のときに、
青と白のイルミネーションを見つめて佇む姿
(あんなに踊れる人だからこそ、立ち姿も美しいのでしょう)。

今回の公演は明日11/14 (日)が最終日ですが、
(詳細は、右下の LINKS リストにある、西林素子さんのページからご覧ください)
ぜひ、2月の第二回公演へ。