2008年4月30日水曜日

広東・東京・墨西哥

「どちらの国から?」
「どこだと思いますか?」
「…韓国?」
「ははは、違うよ、中国です」

奨学金の手続きをしに行って、北京大学から来ている広東出身の学生と知り合いになった。
二年半前にスペイン語を始めたという彼は、ペラペラ、こともなげに話す。どうなってるんだ。
同じくUNAMで、同じくスペイン語文学を勉強しているそう。

会話の記憶が間違っていなければ、
中国には、スペイン語を専攻できる大学が20ほど。
それぞれ、政治、経済、歴史、文学など得意分野があって、文学に強いのが北京大学なのだそうだ。

「どうしてスペイン語?」と聞くと、
大学受験のときに、スペイン語を専攻する代わりに試験をパスできるというオプションがあったそう。
スペイン語教育のプロモーションでもあったのだろうか?

「好きな作家は?」
「一番好きなのは、ネルーダ。それからカルデロン・デ・ラ・バルカも好きだよ」

中国の友達は、中学一年のとき以来。
面白いつながりができた。

2008年4月28日月曜日

タクシー悩み相談室

タクシー運転手をしているEduの叔父さんに、ちょっと質問してみた。
タクシーに乗ったとき、どのくらいのお客さんが話しをはじめるのか。

答えは…「97%、ほとんどだね」
話題は天気から、悩み相談まで。

「今日は人生最悪の日」とため息まじりに話し始めた若い女性がいたそうだ。
職場の配置換えで家からひどく遠くなり、渋滞に巻き込まれて重要な打ち合わせに大遅刻、
その後、恋人との約束にも渋滞に巻き込まれて遅刻、それが発端で別れ話にまで…

しかし会話を続けるうち、元恋人よりも彼女のことをずっと気づかっている男友達がいることがわかってきた。
少し気が晴れた彼女、車が止まると、メーターを見て
「いくらですか?…相談料も入れて」(どんなときでも冗談を忘れない人たちだ)


考えてみれば、閉じた狭い空間で一緒に移動する、というか、目的地まで連れて行ってもらう、というタクシー経験はちょっと特殊なものだ。東京のタクシーはどうなのだろう。そういえば、東京でよく聞いていたラジオの夜の番組に、タクシーの中を舞台にしたCMがあった。

2008年4月27日日曜日

細い足

この前の日曜日、
グロリアのおばあさん、イネスさんの99歳の誕生祝いに招かれた。

芝生の会場に、初めて顔を合わせるという遠縁の親戚までが大集合。
肉、ソーセージ、ノパル、モレ、チチャロン、アロス・ア・ラ・メヒカーナなどを
トルティージャで包んでうーん美味しいと舌鼓。誰が声をかけるともなく、フィエスタは始まっていた。

舌もおなかも満足したころ、キーボード持参の歌うたいデュオが登場すると「おばあちゃん、あとで踊る?」という声に、静かにうなずくイネスさん。
若い頃はダンソンをよく踊りに行ったらしい。女性は家でおとなしくしているのが当たり前だった時代のこと。

首から携帯電話のポシェットを提げていたイネスさんは、1910年に起きたメキシコ革命後の混乱期を知っている。物も食料も不足していたあの時代、お父さんがつくった石鹸と蝋燭を頼りに、物々交換で食べ物を手に入れていたのだ、と教えてくれた。

大きなケーキが到着すると、イネシータ、イネシータという呼び声が始まった。
両脇を支えられてステージに立ち、「何歳になったの?」とマイクを向けられると「98歳」。


「皆が 健康で、家族を大切にし、幸せに生きられますように」

息子、娘、孫、ひ孫…次々代わるパートナーに支えられ、細い足でワルツを踊るイネスさんは
あの日集まっていた大家族の源、うんと枝を広げた木の、太い幹だった。

2008年4月21日月曜日

10年後

4月19日、土曜の夜
オクタビオ・パスの没後10年を記念する催しがあった。
舞台に現れた顔ぶれは以下の通り。

Enrique Krauze (メキシコ)
Juan Goitisolo (スペイン、VTRによる参加)
Michel Deguy(フランス)
Hugh Thomas (イギリス、VTR)
Teodoro González de León(メキシコ)
Ramón Xirau (スペイン、VTR)
Orlando González Esteva(キューバ)
Yves Bonnefoy (フランス、txtによる参加)
Tomás Segovia (スペイン、VTR)
Derek Walcott(イギリス)
Octavio Paz (メキシコ、VTR)
y Orquesta Sinfónica Nacional


パスとの思い出を語るいくつもの証言のなかで、
印象深いのは次の四つ。

・Einrique Krauze氏、「パスの死後、われわれは孤児となった」「パスは誰にでも寛容な態度で接した」
・建築家González de León氏、最晩年のパスに会ったときのことを語る際、涙でぐっと言葉につまる。
・キューバ亡命詩人の、フィデル・カストロの演説を思わせる雄弁口調。
・Bonnefoy氏が、パスをブルトン、アラゴン、エリュアールと並べて語っていたこと。


華やかな記念式典の一方で、「メキシコで唯一のノーベル文学賞パス」だけを祭上げるような風潮を冷ややかな目で見ている人たちもいる。
「確かに重要な存在だけれど、彼だけがメキシコ文学ではない」


後日。パスの詩を扱ったゼミの休み時間、どう思うか先生に尋ねてみた。
緑がかった瞳の美しい先生は、3年前にパスについての博士論文を書いたばかり。

「作家としてのパスと、その人となりは、残念ながら別の問題。
メキシコは文学の世界でも寡頭政治の傾向があって、
パスはその支配者的な存在であったこと、そうなるための自己PRに長けていたも確か」

「パスが"権威" を獲得するに至るまでの様々な戦略を辿った本がある」
Ruben MEDINA, Aurtor, autoridad y autorización. Escritura y poética de Octavio Paz.
(El Colegio de México, 2001.)

パスの系譜に属する作家や批評家の間では大変な不評だったらしい。

クラウセ氏のコメントについては、
「孤児発言にはウンザリ。もう、誰かのスカートにしがみついてる時期はとっくに終わった」
「パスが誰にでも寛容だったなんて、よく言えるものだ」

裏話の導火線から、思いがけない話も飛び出した。

パスの死後、著作権は(19日の式典にも出席していた)夫人に受け継がれた。
彼女の意向により、Webであれ、アンソロジーであれ、教科書であれ、とにかく公の媒体に
パスの文章を載せるためには膨大な額を積まなければならず、事実上不可能になっている…

「作品に触れる機会が減れば、読まずに大作家だと崇めたり、逆に中身を知らずに批判したりすることにつながる。寡頭政治的な態度はさておき、作品はすばらしいのに。嘆かわしい現状…」


夜のPalacio de Bellas Artes に飾られていた百合の華やかな香りと、
昼の教室で聞いた話を同時に思い出すと、複雑な気持ちになる。

2008年4月18日金曜日

ファラオの落書き

水・木の詩のクラスメイトの中でも、飛びぬけて「わかって」いるラムセス。
あの名前に、あの雄弁、朗々とした声は、
もしやファラオの家系か何かなんじゃないかと思わせる。家はキリスト教ではない、とも言っていた。

いちいち聞き逃すまいとペンを忙しく動かす私とは対照的に、
ファラオの末裔はいつもゆったりと構えている。

ときどきペンを取っていたので、ちらりと見てみたら、青いボールペンの描いていたものは
幾何学模様に、人の顔に、そして、まあるく座る猫の正面像。特に猫がうまい。
家ではアビシニアンを肩に載せ、詩を吟じているのだろう。




2008年4月15日火曜日

判官びいき

先週水曜の詩の授業は、 Enrique González Rojo (1899-1939)を読んだ。

海や雨や川を詠んだ詩は、
これまでの詩人たちの存在論的詩よりもずっと親しみやすい、ようやくこういう詩に出会った
と思っていたら、クラスメイトからは「良さがわからない」の声。

なかでも、「潜水士El buzo」という題の詩は、先生も「これは失敗作」。
特にこの詩が好きというわけでもなかったけれど、
判官びいきの火がついて、私の舌はいつになく熱を帯びて動き始めた。

全六連、かいつまんでいうと

海水面のイメージ、海に呼ばれて潜り始める、
体の重さが消え、海に呼ばれて潜り続ける、
光も音も消え、海に呼ばれて潜り続ける…

こんな風でクライマックスのない詩なのだが、
総好かんから救い出そうと喋っているうちに、
深い深い深い深い海の底へ、終わりなく潜ってゆく感覚が
うまいじゃない、と改めて思うに至った。

2008年4月11日金曜日

森に入って迷わず

聴講している二つのゼミは、両方とも20世紀前半のメキシコ詩を扱っている。
詩人の回想や散文、その詩人についての評論などもときに混ぜながら、
詩を読み、詩を語る。

改めて圧倒されるのは、
ギリシャ・ローマにまで遡る西洋詩の伝統、
スペイン、イスパノアメリカ、時代を通じて複雑に織られているスペイン語詩の世界、
そして過去、同時代の思想・哲学と深いつながりを持つ、詩の世界の厚み。

予習をしても私は「???」をたくさん抱えたまま重いアタマで教室に着く。
クラスメイトや先生の言葉を聞いて、詩がぱっと見えてくることがある。
貴重な経験。

2008年4月8日火曜日

一時間の差

昨日4月6日から、夏時間に変わった。
ぐるり一時間、時計の針を進める。

今朝の謎。
ラジオつきデジタル目覚ましの数字もちゃんと合わせたのに
身支度を整え終えて時刻を見ると、普段より一時間の遅れ。
どこでどう一時間ロスしたのか、どうしても思い当たらない。

現在、午後七時半過ぎ。
部屋はようやく薄暗くなり始め、
かすんで見える山並みの雲は桜色がかり、その上の空はまだ水色。

夏至まで、さらに夜が遠くなる。

2008年4月4日金曜日

二重の紫樹

空に向かって広がる細い腕から

ふっと離れて落下した花々は、


地面に広がる枝に抱きとめられる。

2008年4月3日木曜日

「足元を見る」

昨日「足元を見られるのは…」と書いてから、ふと思いついて広辞苑を引いてみた。
(電子辞書はコンパクトでうれしい)

足元を見る、という表現の起源は
かごかきが旅人の足元を見て、疲れているのにつけこんで高値をふっかけたということにあるらしい。

旅は足だった時代。
包みをしょって、笠をかぶり、土の道を一歩一歩進んでいくのは足。
旅籠に着いて草鞋を脱ぎ、
桶の水で泥を落として、ようやくほっとするのも足。
馬に乗っても、かごに乗っても、進むのは足。…足足足足足

2008年4月1日火曜日

時価taxi

初めて入国管理局に行った日は、さんざんだった。
文字通りドアからはみ出るほど超満員のバスを数台やりすごし、
ようやく乗れて「入国管理局に着いたら教えてください」。

まだか、と不安になったころに「ここだよ」と言われ、ガラガラのバスから降りる。
建物の中に入って、尋ねては移動、順番待ち、また移動、順番待ちの末、
30分以上してようやくその建物ではないことがわかった。

外に出てまた人に尋ねてバスに乗り、いい加減くたびれて到着した後には
更にぐったりする手続きの山、永遠に伸びる列が待っていた。

帰りはタクシーに乗ってみた。
いくらかかるか最初に尋ねて、20ペソ。
5分くらいであっけなく到着。

病み上がりで行った二回目は、地下鉄を出たところにベースのあるtaxiに直行した。
乗ったときに運転手さんが「20ペソ取るけれど、いいですか?」「はい」

覚悟して二回目の滞在時間は、思いのほか短かった。
指定された日付に受け取りに行った書類は、「まだできてません」。
帰りも、taxiに。運転手さんに話しかけてみると、会話しているうちに18ペソで着いた。

三回目の行き。行列に備えて体力温存、と思い、taxiに。
乗り込んですぐに、「ハカランダがきれいですね」と話しかけた。
運転手さんも花好きなのか、マツモトさんがダリアをメキシコに持ってきたとラジオで聞いた、
どの花がメキシコ原産か、あの秋の花が…話がはずむ。
到着して「いくらですか?」「15ペソだよ。」

三回目の帰り。登録の済んだ滞在許可書を受け取るだけなのに、1時間。
立ちっぱなしの疲れ、そして好奇心もあってtaxiに乗ってみる。
ハカランダから始まり、メキシコ文学を勉強していること、滞在は二回目だということ、
初めて来てから気に入って何度も訪れていることなど話していると、すぐに着く。
メーターは、12.6ペソ。

外国人だからと足元を見られるのは腹が立つけれど、
一日の大半を変わり映えのしない道を走っていることを考えたら、
「座布団」次第で値段をちょっと変える運転手さんの気持ちも、わかる気もする。