4月19日、土曜の夜
オクタビオ・パスの没後10年を記念する催しがあった。
舞台に現れた顔ぶれは以下の通り。
Enrique Krauze (メキシコ)
Juan Goitisolo (スペイン、VTRによる参加)
Michel Deguy(フランス)
Hugh Thomas (イギリス、VTR)
Teodoro González de León(メキシコ)
Ramón Xirau (スペイン、VTR)
Orlando González Esteva(キューバ)
Yves Bonnefoy (フランス、txtによる参加)
Tomás Segovia (スペイン、VTR)
Derek Walcott(イギリス)
Octavio Paz (メキシコ、VTR)
y Orquesta Sinfónica Nacional
パスとの思い出を語るいくつもの証言のなかで、
印象深いのは次の四つ。
・Einrique Krauze氏、「パスの死後、われわれは孤児となった」「パスは誰にでも寛容な態度で接した」
・建築家González de León氏、最晩年のパスに会ったときのことを語る際、涙でぐっと言葉につまる。
・キューバ亡命詩人の、フィデル・カストロの演説を思わせる雄弁口調。
・Bonnefoy氏が、パスをブルトン、アラゴン、エリュアールと並べて語っていたこと。
華やかな記念式典の一方で、「メキシコで唯一のノーベル文学賞パス」だけを祭上げるような風潮を冷ややかな目で見ている人たちもいる。
「確かに重要な存在だけれど、彼だけがメキシコ文学ではない」
後日。パスの詩を扱ったゼミの休み時間、どう思うか先生に尋ねてみた。
緑がかった瞳の美しい先生は、3年前にパスについての博士論文を書いたばかり。
「作家としてのパスと、その人となりは、残念ながら別の問題。
メキシコは文学の世界でも寡頭政治の傾向があって、
パスはその支配者的な存在であったこと、そうなるための自己PRに長けていたも確か」
「パスが"権威" を獲得するに至るまでの様々な戦略を辿った本がある」
Ruben MEDINA, Aurtor, autoridad y autorización. Escritura y poética de Octavio Paz.
(El Colegio de México, 2001.)
パスの系譜に属する作家や批評家の間では大変な不評だったらしい。
クラウセ氏のコメントについては、
「孤児発言にはウンザリ。もう、誰かのスカートにしがみついてる時期はとっくに終わった」
「パスが誰にでも寛容だったなんて、よく言えるものだ」
裏話の導火線から、思いがけない話も飛び出した。
パスの死後、著作権は(19日の式典にも出席していた)夫人に受け継がれた。
彼女の意向により、Webであれ、アンソロジーであれ、教科書であれ、とにかく公の媒体にパスの文章を載せるためには膨大な額を積まなければならず、事実上不可能になっている…
「作品に触れる機会が減れば、読まずに大作家だと崇めたり、逆に中身を知らずに批判したりすることにつながる。寡頭政治的な態度はさておき、作品はすばらしいのに。嘆かわしい現状…」
夜のPalacio de Bellas Artes に飾られていた百合の華やかな香りと、
昼の教室で聞いた話を同時に思い出すと、複雑な気持ちになる。