2007年12月31日月曜日

大晦日

年越し準備の休憩中に。

大掃除という習慣、なんだか好きだ。
すっきりぴしっとさせて、新しく始め直す。
普段気になりながら見て見ぬふりをしてきたことも、
えいやと片付けるきっかけにもなる。

しかも、こんな機会でもなければ
いつも暮らしている空間の隅々をじっくり見ることもあまりない。
風呂場のドアを拭きながら、ここの取っ手はこんなだったんだなぁと
改めて見入ってしまった。

ほかにも新鮮な体験があった。
昨日、紙類をバッサバッサ処分しながら
以前人からもらったCDを初めてかけてみた。
「音の風景:ナワトル語の一日」という、
日の出、朝食、畑仕事、市場、雨が降ってくる…などのシーンを
音楽と効果音に乗せて、ナワトル語の台詞で聞かせるもの。
99%わからないのだが、地名として残っている言葉を時々耳が拾った。
休憩中に、付録の絵解きナワトル語を広げてみたら
「Coyotl」 が目に入った。
コヨーテ!

太陽はTonalli.
月はMetztli.
火はTletl.
雨はAtl.


2007年12月29日土曜日

フランス(10)モンペリエ


年が明ける前に、秋の旅ノート(フランス編)の最後を。

マルセイユから西に百キロほどのところにあるモンペリエは、
暖かく、そして学生の町ということもあってか、ゆったりしていた。
お昼どきの公園は幅広い世代の人たちで賑わっていて、
ベンチに三人、さらに向き合うように地べたに4,5人という
大人数でサンドイッチをかじっている高校生もいた。

この町で、チャーミングな笑顔の女性に会った。
L'Occitaneの店員さん。
飛行機に乗るのでと私が言うと、ビンが割れないようしっかり包んでくれた。
ソレーヌがふと南フランスのアクセントを話題にすると、
「そう、ここの人たちはかなり訛ってますよね。」
「え、あなたも南フランスのアクセントだけど?
 どこかほかの町から来たの?」
「いやだ、ここの訛りきらいなのに。なんて、大きな声じゃ言えないけどね」
カリブ海のアンティル諸島出身という彼女は、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「故郷のアクセントを持っていたいのに、どうしても変わってしまうみたい。
3歳になる私の息子はもっとひどいの。
保育園の先生が、南フランス訛りで話すでしょう。
だから、息子が話すのを聞くと、自分の子だって信じられないほどなの!」
そう言いながら、その人はきらきらと笑った。

きっと、里帰りしたときにも
自分と息子さんの南フランスの訛りのことを
ふるさとの家族と一緒に笑いあうんだろう。

2007年12月27日木曜日

hace dos años


                                   photo by Yuko Yamashita

今日、井の頭線でメキシコ人夫妻と知り合った。
メキシコにいた二年前の今日は何をしていたかなと思って
日付を頼りに写真を探したら、こんな所にいた。
オアハカ市内から車でしばらく山道を走ったところにある、
Hierve el aguaという場所。
石灰質の水が沸き出し、長い年月をかけて作り出した風景は
まるで極楽浄土だった。
得体の知れない白装束の一団がいてぎょっとした。

太陽がさんさんと照っていて、まぶしくてたまらないほどなのに、
水は、裸足で入ると悲鳴をあげるほど冷たかった。


2007年12月26日水曜日

手袋

雪国育ちの友だちから
「東京の人は寒くなっても手袋をしないよね」と言われた。
道ゆく人の手もとを観察しながら歩いてみたら、
確かに素手の人が多い。
バイクに乗っている人たちはさすがに皆手袋をしていたけれど、
自転車でも素手の人が多いのにはびっくり。

「手袋」という日本語は、なんだかそのままの名前だなぁと思い
ちらりとスペイン語のguante(手袋)を辞書で引いてみたら、
aguantar (我慢する、耐える、こらえる)の関連語と出てきた。
(篭手で)握り締めるというところからきているらしい。
同じ物の名前でも、その語の周りにある世界はだいぶ違うものだ。

ぐっと手を握り締めて耐えていないで、素直に手袋をはめたら、
体の感じる冷たさがだいぶ和らいだ。





2007年12月25日火曜日

Oscar Peterson追悼

ラジオから、オスカー・ピーターソンの訃報が聞こえてきた。
一瞬にして手元から耳に注意が移った。
トロント郊外の自宅で、現地時間の12月23日に亡くなったとのこと。

一曲だけラジオでもかかったけれど
軽やかで華やかで洒脱な彼の演奏をもっと聞きたくて、
大学のサークル時代の後輩にもらったCD
"Oscar Peterson plays My Fair Lady" をかけている。
58年の録音だから、33歳のときの演奏だ。

2004年、最後の来日公演の際には
上原ひろみとの共演もあったらしい。

あちこちに刻まれて残っている、
いろいろな時代のオスカー・ピーターソンの演奏をもっと聞いてみたい。

2007年12月23日日曜日

Navidad en Oaxaca 2005


2年前、オアハカでのクリスマスに撮った写真より。

2000年以上経って、
本人は知ることも行く術もなかった
地球上のあちこちの土地で
誕生日が祝われるとは、
なんだか不思議なことだ。



2007年12月21日金曜日

Porto Alegre- Tóquio

先週、とあるフィエスタで
日本を訪れていたブラジルの作家

Marcelo Carneiro da Cunha氏に会った。

ビール片手にたくさんの話を聞かせてくれたが

中でも新鮮な驚きだったのが次の話。


外国に行くと、よく訊かれる質問が

「**系ブラジル人で有名な作家はいますか?」

そんなとき、自分はどうにも答えられない。

だって、ブラジルでは「**系」という起源について

例えばアメリカ合衆国のように、気にすることはほとんどない。

どの作家も、ブラジル人作家、ただそれだけなんだから。

君だって、ブラジルに行って、ポルトガル語をちょっと話したら

もう「ブラジル人」だと思われるよ。


彼が拠点としている町のひとつは、

ブエノス・アイレスにも、サン・パウロにも近い

ちょうど二つの文化の交差する点にある町、ポルト・アレグレ。

話を聞けば聞くほど行ってみたくなる。


メールを書いたら、
地球のちょうど向こう側から十分足らずで返事が来て、
terra というネット上の新聞のコラムに日本に行ったときのことを書いたよ
と教えてくれた。

スペイン語の知識と、ポルトガル語の初歩知識を頼りに

読んでみたら、
漢文の読み下し文を読んだときの感覚に似ていた。

TERRA, 12月14日のコラム

2007年12月19日水曜日

バスを止めたまま


ウアパンゴ・フェスティバルの最終日、

まだ賑わう会場をあとに、昼過ぎから帰途についた。
途中で道をそれてのんびり道草、川沿いを散歩したり、川に飛び込んだり。
夜には帰り着く予定が、夕飯の時間になってもトルーカはまだまだ遠く、
バスは一軒の明るい料理屋の脇で止まった。

わいわいと店に入って魚料理をゆっくり味わい、
さあそろそろ行こうかとぞろぞろ動き出したら

先にバスに戻った人たちが、大音量で陽気な音楽をかけた。

「今日はイバンの誕生日なの」と
黒髪のアリシアがそっと教えてくれる。
車通りの少ない夜の道路は、すっかりダンスパーティー。

軽快にステップを踏みながら、イバンの前にはいつの間にか行列ができ、

自分の番がめぐってくるとイバンにabrazo(ぎゅっと抱擁)して
「おめでとう!」



(2005年11月)

2007年12月13日木曜日

音楽に体を動かせ


ウアパンゴ・フェスティバル回想の続きを。

フェスティバルは屋内ステージと野外ステージの二本立てで、
「ウアステカHuasteca」と呼ばれる地方の各地から集まったダンス団が

独自の衣装に身を包んでそれぞれの地方に伝わる踊りを披露し、

地元のこどもたちも晴れがましい顔つきで踊っていた。
小学一年生くらいの小さな子でも男女のペアで踊る。
演目の合間には、すっかり踊りたくなった小さな子が
お母さんにステージの端に載せてもらい、ステップを踏んでいた。


ダンスだけではなく、
ギター・バイオリン・歌のトリオも見もの。
こどもから若者、ベテランまで層が厚い。
少年のソプラノも可愛らしいけれど、おじいさんの味には及ばない。

熟練した演奏が始まると、祭りに来ている人たちの体が自然に動き出す。

歌のパートは、聴くところ。楽器だけのパートにくると、ステップを踏む。

ふと見るとアウロラが誰かとペアになって踊っている。

曲が終わると私のほうに来て、次の曲が始まるとステップを教えてくれた。
1,2,3. 1,2,3. 1,2,3.... 
曲が速くて難しい。
ひゃあ難しいと言いながら、もつれる足を動かしていたら、
音楽を感じてごらん、後は自然に体が動くに任せるんだよ、と
近くの人が教えてくれた。

日が暮れると、 食べ物屋台のあたりがいよいよ賑やかになってくる。
いい具合に酔いの回ったおじさんたちの間から拍手が沸き、
歌の即興合戦が始まった。

ギターとバイオリンが淡々と伴奏をするのに乗せて、
相手のことを面白可笑しく歌い上げる。
ワッと笑い声が起き、間奏が挟まると今度は相手の反撃。
なんと言っているのか知りたい。
と思ったけれど、アウロラに内容を教えてもらっても、
ふむふむなんて言っている間に歌は進み、遅れをとるばかり。

仕方ないので雰囲気だけを存分に楽しんだ。

(2005年11月)

2007年12月12日水曜日

鮮烈な赤



アマトランのことを書いたら、
ベラクルス州に着くまでのおそろしい一晩を思い出した。
アウロラの通うダンス学校は、極寒の町トルーカにある。
ウアパンゴフェスティバルへ向かう一行は、
土曜の夜にトルーカに集合し、貸切バスでベラクルス州へと走った。

「メキシコ」というと寒さとは無縁のようなイメージがあるが、
真夜中にトルーカから山を越えて走るバスの車内は
「冷える」どころの騒ぎではなく、セーターに冬用の上着、
マフラー、手袋、
レッグウォーマー、
アウロラ家から貸してもらったひざ掛け、この全部で身を守っても
まだまだ寒くて、まずは足の感覚がなくなり、そのうちに痛みに襲われた。
その上、文字通りの「騒ぎ」にも悩まされた。
出発して間もなく、車内には「バンダ」のCDが
爆音で流れ始めたのだ。
管楽器が山ほど入った編成の、それはそれは賑やかな音楽。
ソプラノサックスの音があれほど恨めしく感じられたのは、
後にも先にもあの時のみ。
陽気な騒ぎに耳をふさぎ、冷たく痛む足をさすりながら、
腕時計を見れば午前二時。

いつの間に気を失ったのか、目覚めればベラクルス。
窓の外はすっかり日曜の朝だった。
軽やかな足取りで教会から戻る女性たちの白い服がまぶしく、
繭のようなひざ掛けをたたんでガクガクとバスを降りると、
そこは楽園のような暖かさだった。
うーーんと全身を伸ばし、朝食のため市場へ向かう途中の道で、
パッとまぶしい赤が目に飛び込んできた。


2007年12月10日月曜日

シンクロニシティ


昨日話題にしたアレブリヘの長崎・タンピコ夫妻から、
今日、クリスマスカードが届いた。
ますます『シンクロニシティ』を読んでみたくなった。
が、「うれしい偶然もあるもの」というぐらいがいい気もする。

ケベードを読んでいてoráculo
(「神のお告げ」)という語を引いたら
熟語で「palabras de oráculo」(直訳:神託の言葉)
=「どうにでも取れる返事」。


写真は、ベラクルス州アマトランで行われる
この地方の伝統的な踊りと音楽の祭典ウアパンゴフェスティバル
に連れて行ってもらったときに撮ったもの
2005年11月)
この翌日、フェスティバルに招いてくれたアウロラの家族に会いに
一晩だけタンピコへ行った。

2007年12月9日日曜日

悪夢を食らう



メキシコのオアハカ州にルーツを持つこの怪獣は、
悪夢を食べてくれるというアレブリヘ。
タンピコ・長崎カップルの結婚式のときに引き出物としていただいた。
メキシコシティ、雲仙を経て、東京に着いたのが9月のこと。
今ではこうして、
冬の乾いた強い日差しを受けて光る、クリスタルの木を守っている。



2007年12月7日金曜日

ことわざを叫ぶ

「嫌い嫌いも好きのうち!大丈夫だよ!」
昼下がりの電車のホームで、
閉まりかけたドアに向かって大学生男子が叫んでいた。
その電車にゴトゴト運ばれていった彼のともだちがどんな状況にあるのか、
果たしてほんとうに「大丈夫」なのかは、想像するしかない。

「嫌い嫌い…」は「ことわざ」とは言わないのかもしれないが、
「ことわざ」と呼ばれるものには
「急がば回れ」のように教訓的なものや、
「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」のように「あるある!」というもの、
「暖簾に腕押し」のように、ある状況を巧妙に表現したものなど
かなりのヴァリエーションがあり、
強いてまとめるとすれば、
「技アリ」というようなうまい言い方故に、長く残っている表現というところか。

夜の電車に揺られながら、
ことわざにはどんなのがあったっけなと考えていたら、
あることわざの「技」に初めて気づいた。

「蛙の子は蛙」。
なんで蛙?と思ったことが以前にもあった。
だって、蛙の子は、おたまじゃくし。
あ、そうか!
はじめは「俺はおたまじゃくしだ!」と思っていたおたまじゃくしも
いつかある日……。






2007年12月6日木曜日

幸せって、

幸せって何だろう、なんて普段から考えるわけではないが、
幕末に日本を訪れたスイス人エメェ・アンベール(Aimé Humbert)の
『絵で見る幕末日本』(茂森唯士訳、講談社学術文庫)を読んでいて
出会った一節に、こういう捉え方はいいなと思った。

日本で見たさまざまな鳥の話がひとしきり続いたあたりからの引用。

「日本語でツルというこの鳥の名前に、神性をあらわすサマという敬称を付け加えて、オツルサマとも呼んでいる。鶴は、亀とともに、日本人にとっては、長寿と幸福のシンボルになっている。そして、かれらの意見によれば、幸福とは、心の平安と明るい理性を持つことである。入り江の岸辺に住んでいる日本人の大部分は、いま述べたばかりの心の平安と明るい理性を持っている。」

異文化から来た旅人が描いた幕末の「日本人」の姿は
異なる時代に生きる私にとっても新鮮な驚きの連続。





2007年12月5日水曜日

南へ

photo by Edgar. J.P.

いまはMadridに住んでいるメキシコのEdgarから、久しぶりに連絡があった。
「plaza Colónの近くを歩いていたら、こんな看板を見つけたんだ、
ちょうどカメラも持っていたから、撮った写真を送るよ。
本屋だといいなと思ったんだけど、よく見たらレストランだった」



photo by Edgar. J.P.


本屋だといいなと思うところが彼らしい。
オアハカのサポテカ族の王家の血を引くという彼のところは
一家そろって読書家で、皆それぞれにバリバリ仕事をしている。
2006年の年初め、

総勢5人を乗せ
て故郷のオアハカからメキシコシティまでを
真っ赤なトヨタで駆け抜け、一台にも抜かれなかったことや、
友だちと三人でValle de Bravoに行ったとき
一泊二日の旅なのに、
コーディネートに合わせて二足目の靴を持ってきていたこと、

写真を撮るときにも妥協は許さず、
納得のいくアングルを探し抜いてからシャッターを切る姿を思い出した。





2007年12月1日土曜日

フランス(9)Le-Grau-du-Roiにて


「 ここに住んでいたときに、ウミネコがすっかり嫌いになっちゃった、
夜になっても鳴き通しで、うるさくてちっとも眠れないんだもの。」

イザベルさんのアパートは、港のほんとうにすぐ脇にあった。
ベランダから見下ろすと、
レストランのテラスを挟んで、たくさんの船が停泊している。
引越しの途中の冷蔵庫からソレーヌが出してきてくれたコーラを飲みながら
しばらく港を眺めた。
このあたりは、夏には夜遅くまで賑やか、

(観光客は、それでも、ウミネコよりは早寝らしい)
私が訪れた9月下旬には、
半数ぐらいのレストランがすでに閉まっていたが
もう少し寒くなるとシーズンオフになって、町はひっそりするらしい。


町の名前にある、Roiは王。でもGrauって何だろう、と思って
小学校の先生でもあるイザベルさんに尋ねると
ここLe Grau-du-Roiは、十字軍の頃にできた町で、
Grauはラングドックの言葉で、海へ続く道のことだと教えてくれた。


駐車場で見て、少しびっくりした看板。
ドイツからの観光客が多いのか、ドイツ語しか書いていない。
ドイツ語はさっぱりわからないが絵が雄弁で、
どんな危険があるのか
一目でわかる。



浜のほうに「砂浜の彫刻家」がいると聞いて、連れて行ってもらった。
「今日もいるかしら? いつもいるとは限らないんだけど……」
いた。
40代前半くらいだろうか、長髪でしゃがれ声のその人が、彫刻家。
この日つくりあげた砂の彫刻を前に、色々説明してくれた。
砂に糊を混ぜる人もいるが、自分は絶対使わない。
砂の彫刻っていうのは、もともとつかの間の(éhémère)存在なんだから。
朝からつくって、その一日楽しんで、翌朝来てみるとくずれている。
それでいいんだ。
抽象作品もつくりたいんだけど、
それじゃあコインを投げてくれる人がいない。そういう作品は、
却ってこどもたちだけが理解して気に入ってくれたりするんだけど。
でもやっぱり、わかりやすい作品をつくれば
足を止めてくれる人が多いから、
ウミガメとか蛇使いとか、こういうのをつくるんだよ。

作品を撮った見物客たちが送ってくれた写真が
アルバムにして置いてあった。
そのなかで気になったのは、
アフリカ大陸と、それを両脇から支える女性二人の像。
「アフリカには、僕たちとは違う世界観がある。
女性が生活を支えてるんだ。
自分たちの世界観が絶対ではない、

別の世界もある、と伝えたかったんだよ。」

すっと冷たい風が通り抜け、気づけばだいぶ陽が傾いている。

「朝日と夕日のときが、ちょうど今が写真を撮るにはもってこいの瞬間。
光が強すぎても、弱すぎてもだめなんだ。」
この彫刻家の想像力のなかでは、

人魚姫の物語の結末も変わりそうに思えた。




2007年11月29日木曜日

秋色散歩

この前の日曜日、
ロシアから建築史を勉強しに来ているアーニャと
イタリアで木造建築の修復を学んで来たモトコと
小金井公園の「江戸東京たてもの園」に行った。

駅からの道すがら、お蕎麦屋さんでお昼にした。
ア:「おすすめは?」
店:「この時季ですと、きのこそばですね」
ア:「わ、きのこ大好き!」(素敵な笑顔)

以前、言語学・スラヴ語学者の黒田龍之助さんから
ロシアのひとは、きのこが大好きだと聞いたことを思い出した。
アーニャによれば、ロシアでは「リシーチカ」という黄色いきのこが人気で、
その意味は「きつねちゃん」。
なんとかわいらしい名前。


八王子千人同心組頭の家。
秋の陽を浴びた干し柿がリズミカル。

同じく組頭の家。
光のとおり道が、静かでもあり、活き活きと元気にも見える。


たてものを出ると、園内には落ち葉プールができていて、
落ち葉のシャワーにこどもたちがキャーキャー喜んでいた。




高橋是清邸の二階から。
眺めているといつまでも飽きず、つい長居してしまう。


写真には撮っていないが、
「ここに住みたい」と訪れる度に思うのが、前川國男邸。
ボランティア・ガイドの方が、
ル・コルビュジエの影響がここにもあそこにも、と
サヴォワ邸やチャンディガールの建物などと
「ここが似ている」と逐一対照した写真アルバムを見せて下さったが、
木でできている暖かみもあって、まったく別物に思える。
ともあれ、
独創的であろうと、誰かに着想を得たものであろうと、
あれだけ居心地のいい空間をつくれるとはすごいことだ。

2007年11月24日土曜日

柚子湯

今年は庭の柚子が豊作。
(偶然の一致なのか、鉢植えのゴムの木も今年はたくさんの若芽を出した)
先日、夕飯の鍋物に柚子を絞り、夜は柚子湯に入った。
湯船の蓋を開けた瞬間、爽やかで甘く豊かな香りが広がる。
香りに包まれながら上半身を深い鈍角に傾けて首までお湯につかり
しあわせの逃げてゆかないような類の、満足のため息をひとつ。
よく「ナマコを初めて食べた人はよっぽど勇気があったに違いない」
なんて言うけれど
初めて柚子を湯に入れてみた人は、なんていいことを思いついたんだろう。

2007年11月21日水曜日

パスの細道

昨日、上智大学のイベロアメリカ研究所で行われた
ドナルド・キーン氏と林屋永吉氏の講演会
「『奥の細道』―異文化を行く―」を聞いた。

この日の講演者のお二人の接点は、
キーン氏が『おくのほそ道』の英訳を手がけ、
林家氏がスペイン語訳を手がけた、ということだけではない。
お二人のお話を聞くなかで生き生きと伝わってきたのは、
林家氏と共に『おくのほそ道』のスペイン語訳に携わり、
キーン氏の英訳に刺激を受け、教えをうけて謝辞をも送った
メキシコの詩人、オクタビオ・パスの姿だった。

ところで、私がメキシコで会った友人たちが語ったパス像は
大物詩人ゆえに若い世代からは反発があるのだろうか、
どちらかと言えばマイナスイメージといえるようなものだった。
それとは対照的に、この日のお二人のお話からは
尊敬する、そして大切な友人パスを思う気持ちが伝わってきた。

林家氏は、1952年にメキシコへ渡り、外務省での仕事を通じて、
日本から戻ったばかりのパスと知り合ったという。
仕事の話を早々に切り上げ文学談義を始めるパスと会うのが楽しみで
出勤するのがすっかり楽しみになったこと。
パスに芭蕉の翻訳を持ちかけられたけれども時間がなくて取り掛かれず、
怪我をして入院したときに見舞いにやって来たパスに
「今こそチャンス」と言われて、その翻訳を始めたこと。
以前、iichikoのパス特集号でもこの辺りの話を読んだことがあったけれど
こうしてご本人の軽妙な語り口を生で聞くと、
いかにも、若き日のパスの溌剌とした姿が目に浮かぶようだった。

キーン氏によれば、
パスはよく笑う人、ものの面白さをよく知る人だった。
N.Yで初めてパスに出会ったころのある日、
さる現代音楽作曲家のパーティーで難解な音楽を聴いたとき、
賛辞を送る招待客たちの声を
聞きながら
しらじらと家を出たパス夫妻とキーン氏は、
率直にその音楽を酷評し合い、三人で大笑い。
それから後、何度もあちこちの国で再会を繰り返し、
互いの全著書を送りあったという。
あるとき、パスの詩集を批判する手ひどい書評を見たキーンさんは、
反論をすぐさま書いてニューヨーク・タイムズに投稿。
普段わたくしは行動的な方ではないのですが、友だちのためでしたから、
と語るキーンさんは、
「パスさん」と言って話を始めたのが、
いつの間にか「オクタビオ」をめぐる回想になっていた。

その場にいない(存命であれば、同席したかったかもしれない)
パスを含めた三人が、旅の道連れ、
道中のかけがえのない仲間と感じられた。

2007年11月17日土曜日

フランス(8)Aigues-Mortesにて

「城砦のある小さな町、行ってみたい?
私の大好きなお菓子屋さんがあるんだ」
もちろん!
ということで、モンペリエの町からの出口を車でぐるぐる探し、
しばらく走って、Aigues-Mortesへ。
石畳の、きれいな町。
観光客、特にきれいな白い髪のお年寄りの姿が目につく。
お店が立ち並ぶ通りの右手に、なんだか一際きれいな店がある。
「ここ、ここ」


キャンディーにチョコレート、ヌガー、クッキー…
いろとりどりのお菓子が整然と魅力的に並んでいる。
お父さんに肩車されたこどもが目をキラキラさせていた。

「カントリーマアム」大のチョコクッキーの試食をすすめてくれたおばさんに
「写真に撮ってもいいですか?」と聞くと、
どうぞ、とにっこり笑顔で答えてくれた。



ヌガーの色合いとお店全体の雰囲気が合って、洒落ている。
ジンジャー入り、オレンジピール、苺、イチジク、ピスタチオ…
贈り物用に包装されている詰め合わせの、包み紙とリボンの配色も
しびれるほど洒落ていたが、見とれただけで写真を撮るのを忘れた。


朝顔に囲まれたお店。
鉄柵の深緑、これが好き。
公園のベンチなどにもよくこの深緑が使われ、景色に溶け込んでいる。




古本屋さん。
旅がまだまだ続くのでなかったら、
古い本のページに水彩で絵を描く渚itaに、
一冊買っていきたいところだった。


昼食後のおしゃべりを終えたばかりの、おじいさん。
仲間に挨拶をした後、家の中へ消えていった。
鮮やかな赤いセーターがきれい。
深緑の椅子の上には、
南仏模様のクッション(座布団?)二枚。
座るときには、片方を背もたれに当てるのか、二枚の上に座るのか。
これもまた色合いがきれい。



私にとって、この町はすっかりお菓子と色彩りの町になってしまったが
歴史をたどってみれば、ルイ9世が十字軍遠征のときに建てた場所。
けれども宗教色が強いという感じではなく、
ここの教会は至って簡素なつくりで、
ステンドグラスも何かの物語を描いたものではない
シンプルな「色模様」だった。

Aigues-mortesという名前も気になる。
Aigueは古フランス語の「水」から、
mort(es)は現代フランス語の語義と同じだとすれば英語でdeadで
例えばla mer Morteだと「死海」、langue morteだと「死語」。
Aigues-mortesは「死水」? しかも、なぜ複数形なのだろう。

2007年11月15日木曜日

ちひろの万年筆

6月ごろから、万年筆を使い始めた。

それから少し遡り、まだ肌寒かったある夜のこと。
渋谷のスペイン料理屋に小人数で集まったとき、
「上着をお預かりしましょう」と言われた旦敬介さんが、
店員さんに上着を渡す前に何かを取り出し、手元に留めた。
万年筆。
ああ、さすが、書く人escritor。

高校からの友だち、ちひろが六月の花嫁になったとき、
ギフトカタログを眺めていて、はっと目に留まったのが、万年筆。
赤ワイン色のPlatinumを頼んだ。

大切なときだけに使うようにしていたら、
付属のインクがしばらくもって、
それが先日とうとう切れた。
インクが高そうという変な先入観があっておそるおそる買いに行ったら、
400円でカートリッジが10本も入っている。

万年筆は別に贅沢品じゃないんだ、
大切に長く使える筆記具なんだと思うと
なんだか嬉しくなって、急にたくさん万年筆の文字を書き始めた。
キーボードにも使い捨てのペンにも鉛筆にもお世話になっているけれど、
万年筆で書くと、書いている文字も中身も丁寧になる気がする。

本筋からは逸れるけれど、万年筆はアルファベットの筆記体が書きやすい。

2007年11月12日月曜日

フランス(7)モンペリエ近郊+港町セート

モンペリエの町を出てしばらく走り、
車を止め、堤防を上がったら急に目の前に海が開け、
「わっ!海だ」と思わず大声をあげる。
「海に行くって、言ったでしょう?」と可笑しそうにイザベルさん。

石の浜をずんずん左に進んでいくと砂の浜になり、
ぽつぽつといる人たちは、
それぞれに本を読んだり、大胆に日光浴したり、
砂遊びしたり、水に入ったり。
大西洋の海水はとても冷たくて、
小さな男の子がちょっと入ってみてからキャーと叫び、駆け回った。


浜辺で見た砂のお城、つくりが半端ではない。


きれいな貝を探しながらずっと歩いて来た浜の道のりを、

拾った貝殻を入れた袋を持って、今度は道路沿いに戻る。
まっすぐで平らな道を、ときどきローラーブレードと風が追い越していく。


港町セート(Sète)の教会は、マリア様もキリストも海の守り神という風情。

教会の中の光も、海の中のようにゆらめいて見える。


教会のある高台から見下ろすと、
養殖場が整然とした印象で、

南の方の港町というと、勝手な先入観としては
どこか雑然としたエネルギーがありそうだが、
セートはなんだか小ざっぱりとして見える。

さすがはヴァレリー縁の地?



港に降りてみても、ヨットはたくさんあるのに、
なんだかきちんと、整然としている。

片付いた部屋に入ったような感覚。
奥の右手に見えるのは灯台。全身白く、頭だけ赤くてかわいらしい。


メキシコの作家、アルベルト・ルイ・サンチェス氏が昨年秋、東京での講演で
学生時代、フランスから初めてモロッコへわたったときの逸話を語っていた。

長い長い嵐の船旅の出発地は、セートだった。
港に停泊していた船にアラビア文字を見つけ、思わずカメラを向けた。


このあたりの伝統的な、喧嘩舟。シーソーのような部分がついている。
二艘でやり合うらしいが、どんな風にたたかうんだろう。


旅行中は夕焼けを見る機会が多くて贅沢。
夕焼け空に逆光で写っているのは、海ぞいの劇場。
劇を見ながら、背景には波の音が聞こえてくるのだろうか。贅沢だ。

2007年11月11日日曜日

フランス(6)夜のPont du Gard

夕暮れのアヴィニョンを後にし、
ローマ時代の水道橋Pont du Gardに向かう。
まだ間に合うかな…と時刻を気にしながら
「Pont du Gard」の標識をたどっていくと、
先行する車は次々に別の方向に曲がっていく。
道が空いてて走りやすいけど、これはよくないしるしだね、
と心配そうな運転席のソレーヌ。

対向車すら通らない1台だけのドライブが続く。
空の色合いも寂しくなったころ入り口に着き、駐車場のゲートに進むと、
開いた!よかった、間に合った。
昼間は込み合うに違いないこの駐車場に、
車はもう4、5台しかとまっていない。
うち1台は、ドイツナンバーのキャンピングカー。
そういえばフランスでもキャンピングカーの旅がはやっていると聞いた。

空気も肌寒く感じ、
足元の照明に静かに照らされた道を足早に進むと、
奥からドイツ語が聞こえてきた。きっと、あの車の人たちだ。
ふっと左手を見上げると、月夜に浮かぶ橋!


こんな立派な橋が当然のような顔をして
二千年以上の時間を越えて立っているのを見ると
なんだか狐につままれたような気分になる。
聞こえるのは、虫の音と、
自分には意味の理解できない言語と、
ドイツの人たちのデジタルカメラの操作音、
空には月、
もっと低い空には橋をうつしだすデジカメの液晶画面が光っていた。

この川の眺めが好きなんだ、と言うソレーヌと一緒に
立ち止まってガルドン川をしばらく見てから、
がらんとしたカフェスペースに置かれた銀色の椅子の間を抜けて
機械に駐車券を差し込んで料金を払い、車に乗り込んだ。

アルヴァールを出てからまだ半日しか経っていないのに
大旅行をした気分。
クレストのお昼の残りのサラミ(辛いのと、普通のと)をかじりながら
ソレーヌの母イザベルさんの待つモンペリエまで、
今度は高速道路に乗った。


「幸せであれ」


11月10日、ぽちと河原君の結婚式。
新郎新婦の両方をよく知っている結婚式は初めて。
とは言っても、高校を卒業してから早いもので10年ほど経っている。
スピーチや映像を通じて、
二人それぞれがどんな風に過ごしてきたのか、
どんな人たちに囲まれていたのか、
二人が一緒にどんな時間を過ごしてきたのか、
じっくり見ながら、
今まで話に聞いてきた断片をつなぎ合わせていく気分だった。

日産の自動車の乗ったケーキ、
車は新居に飾るのかな?

集まった皆の気持ち、そして
歌でいっぱいの、この土曜日に
披露宴で新郎新婦に贈られた歌や
二次会で新郎のバンドがうたった歌や
新郎の伴奏で新婦がうたった歌や
大合唱になったLove Love Loveにこめられた気持ちは、
新郎が、新婦へ贈るとうたった歌の、最後のことばに尽きる。

「幸せであれ!」


2007年11月5日月曜日

イタリアン・バーベキュー


日曜の朝、湘南新宿ラインに揺られて籠原へ。
駅まで迎えに来てくれた先輩の車で、
ワイワイとご自宅へ向かう。
「庭でバーベキュー」と思って
ジーンズにフリースにスニーカーで行ったのに、
準備がすでに進んでいたのは、
カラフルできれいでいい香りで端正なイタリアン。
焼きたての
香ばしいバゲットを切るのと、
アスパラに生ハムをまく役目をもらった。



テーブルにはシャンパン、サングリーアにペリエ。
こんなに洒落たテーブルの向こうでは、
こどもたちがはしゃぎ回っている。











鶏にバジルペーストを塗って
チョリソー(違ったらごめんなさい)を巻いた串焼きに、
ハーブに漬け込んだ牛肉、ズッキーニ、なす、
かぼちゃ、アスパラの生ハム巻き、
鮭としめじのホイル焼き。








庭のオリーブはつやつやしたきれいな黒。
秋になる前は、緑だったらしい。

「ぶるーべりー」と言って収穫してしまったこどもを見て、
オリーブの持ち主は「あー…」と苦笑。









庭のではないオリーブと、タコのサラダ。
「この黒いの、好きー」なんて、
まだ四歳の誕生日前だというのに…
その横からは、
「ぶるーべりー」というつぶやきが再び聞こえてきた。








半分に切ったミニトマトの甘さと、
鶏の塩味にバルサミコが絶妙なおいしさ。
水菜バージョンとルッコラバージョンがあり、
お勧め通りにルッコラはさらに美味しかった。
サラダ一品とパンと水があれば、十二分に満足できる。







ボンゴレ・ビアンコと、
パンチェッタとトマトのパスタ二皿を
くるくる巻いて食べたあと、
さらにオーブンから登場したのはラムチョップ。
焼き加減も最高で、骨ぎりぎりまで食べる。

デザートには、とろとろティラミス。




…と、写真に写っている洒落た素敵な料理は
日曜の集まりの主役のうちのひとり。

もうひとりの「主役」は、
カレーを食べ、なわとびをし、
大興奮で白玉だんごをつくり、
ケーキ!ケーキ!と飛び跳ね、
歯みがきした後も、こっそりつまみぐいしてしまうこどもたち。

美味しいものを
たくさんいただき、
こどもたちと一緒にたくさん笑い、たくさん動き、
こどもたちの思いがけない行動や、先輩たちの頼もしい「親」ぶりに、
すっかり感じ入る日曜でした。

2007年11月3日土曜日

歴史、きし、軋む (多和田さんの波紋)

多和田葉子さんと高瀬アキさんによる朗読+演奏のパフォーマンスを
両国のシアターXに見に・聞きに行った。

7時の開演を前に、座り心地のいい客席は見事に満席。
多和田さんも高瀬さんもベルリン在住ということもあり、
ドイツ人と思しきお客さんの姿もちらほら見られた。
全体に年齢層もいろいろ、服装もいろいろで、一人客もかなり多い。
右隣の若い女性は開演前からメモ帳を片手に何かを書き留めていた。

ふっと会場全体が真っ暗になり、後方にぽっと光が灯ったと思うと
それは文字を照らす小さな明かりで、そこから女性の声が聞こえてきた。
この声が、多和田さん。
後から考えれば、マイクを使っているのだから
ほんとうは別のところから聞こえていたのかもしれないが、
そのときは確かに光のところから聞こえる気がしていた。

即興のピアノと供に小説『飛魂』の断片が読まれ、
軽妙で
ちょっと妙でリズミカルで聴覚や視覚を自在に遊びまわる詩が読まれ、
「まっかなおひるね」の照明は真っ赤で
、透明なしゃぼん玉が面白いほどくっきり見え、
あーやーめ♪ あーやーめ♪  という声が耳に残り、
ピアノをトランポリンにして飛び跳ねるたくさんのぴんぽん玉の白さを面白がり、調律の人が見たら卒倒するに違いないと余計なことを考えてハラハラし、
ドイツ語はさっぱりわからないけれどきっと「鏡の月」は独・和で同じ詩を読んでくれたのだろうと推測し、
鬼が出てくる物語ってそういえばほんとうにたくさんあって漢字にもたくさんあって、でも一体鬼って何だと思い、
「くさ」合戦でピアニストが笑った「ほっとくさ」は本当におかしかったんだろうと思うとさらにくすくす笑えてきて、
手拍子机拍子と言葉の寄木細工のようなパフォーマンスを聞いて、詩の言葉は言語でありリズムであり音楽であり、これは楽しい
と、つい舞台上の言葉の流れる感覚を勝手に真似してみたくなり、
読み返してみるとこれは読むに耐えないけれどこの感覚を書き留めておきたいという誘惑には逆らえない。

新宿で友人夫妻と別れ、
電車で少し冷静に戻りながら『溶ける街 透ける路』を読んでいると、
多和田さんもフランスに行ったときに「ナントの勅令」って何だったっけと思ったり、「ルール工業地帯」や「ネアンデルタール人」から社会科の授業や受験勉強を思い出したりしているではないか。
そうか、多和田さんにも、黒板や教科書やノートで見たことばと、現実の空間が簡単には結びつかないという感覚があったんだな、とまた勝手な親近感を覚えた。


ヨーロッパの都市に行って、
教科書や教室で耳慣れた土地や人名や歴史的な場所に出くわして
「え、これがあの……?」「ああそうか、ほんとうにあったんだ」と思ったと書いたら、ともだちからも「あるある」という声をもらったが、
それもこれも日本では
「世界史」や「世界地理」という名前で詳しくヨーロッパの歴史や地理を教わるからなんだろう。

グルノーブルにいた頃、
隣人クレマンスと何だか歴史の話になりナポレオンの話になり、
「1804皇帝ナポレオン」をたよりに即位の年を言ってみせたら、
円周率を10分間暗唱し続けたくらいに驚かれたことがある。
フランスの「世界史」では日本の歴史はおろか、アジアの歴史も扱われず、
かたや日本の高校生がナポレオンについて習うのみならず、
さらに時代を遡って「ナントの勅令」の年号や教皇の名前まで暗記す
るのだとは、信じがたいことなんだろう。

世界の「中心」に近ければ近いほど、自分たちのことしか知らないということになるのか。
世界の「中心」から遠ければ、自分たち+「中心」のことを知らなくてはならなくなるけれど、
自分たちと「中心」のことだけ知っていても、「中心」から遠いところは無数にあり、
球体の全表面をカバーするのはとても難しい。

世界の歴史、と一口で言っても、ある場所だけが濃密で、多くの場所はスカスカで、
レキシのことを考えていると、頭の中がきしきし軋むような気がして、
こうしてみると、結局のところまだ「酔い」は醒めていないようだった。


2007年10月31日水曜日

アヴィニョンの片隅


        

サンピエール教会を訪れる観光客の多くが、
壮麗なファサードをてっぺんまでカメラに収めようと、
デジカメのモニターを見ながら教会からどんどん離れ、
うーん、まだ全部入らないな、なんて言っているうちに
後ろの建物ぎりぎりまで下がっていく。
わたしもそんな中の一人だった。

ふと振り返ると、後ろの建物の窓辺には
地球儀が遠慮がちに外の世界をのぞいていた




2007年10月30日火曜日

フランス(5) アヴィニョンにて

ようやくアヴィニョンに着き、法王庁宮殿に登った。Papesを「教皇」、「法王」という日本語に置き換えて頭に思い浮かべると高校時代、世界史を習った教室の情景を思い出した。こうして実際にアヴィニョンを歩き、長い歴史を経て今に至る石造りの建物を見ていると、歴史は単に紙の上に書かれたことがらではなくて生身の人間が実際に生きたものなんだなあ、という当たり前のことなんだか不思議に感じられる。






美しい絵画や彫像と、おそろしげなレリーフと、果たしてどちらが宗教的メッセージを伝えるのにより効果的だったのだろうか。








幽閉された天使。立派な羽があり、頭上には空もあるのに、囚われの身のままじっとしている。まあ、石なのだけど。










観光ガイドつきのよそのグループの足並みにならい、展望台へ上る。上から見たサン・ベネゼ橋。これが歌にもなっている「アヴィニョンの橋」。その歌、日本語版もあるんだよ、と歌ってみせると、ソレーヌは目を丸くしていた。

橋なのに途中で切れているのは何故なのだろう。





ローヌ川をはさんだ対岸から見たサン・ベネゼ橋。
アヴィニョンの橋の見えるこんな場所にカラフルなカヌーがたくさんいて、親子連れや、小学生くらいのきょうだいが練習している。もう河口に近いこのあたりは、川幅も広く流れが穏やかでこどもの練習にちょうどいいのか。

流れが緩やかそうだとは言え水深はどのくらいあるんだろう。




法王庁宮殿の前には、聳え立つ歴史を背景に、
スケボーで順番に跳ぶ男の子たち。








宮殿脇の庭には、イヤホンで音楽を聴きながらジャグリングを練習する若者。腕の動きがとてもなめらかでスローモーションを見ているような気がした。重力を操れるか、その空間だけ空気ではなく水で満ちているかのようでもあった。

アイスクリーム売り屋台のおじさんもアイスを買いに来たお客さんと一緒に見とれていた。






街には、小さなこどもを連れた家族があふれている。親子の服装の色づかいが、わざとらしくなく自然に統一感を持たせてある。やさしいピンク色の女の子は乳母車を降り、えい、と押しては追いついて、また、えい、と押して勇ましく歩いていた。

後ろからのんびり見守るピンク色のお母さん。頼もしくあたたかい。