2011年8月31日水曜日

あああ古川さんの映像が見られる…

7月9日、Saravah東京で行われた古川日出男さんの
ステージ(と、くくっていいのか、ご本人は「イベント」とおっしゃっていました)
「東へ北へ」のもようが、一部、Youtubeで見られるようになりました。

お知らせをいただいて、
あああ、と、ことばにならない声をあげてしまいました。

つい先日も、夜に湯をざばざば浴びながら
あのメロディー
 (『新潮』に発表された
 「馬たちよ、それでも光は無垢で」
 を読んでまず、存在を知った、あのメロディー)
を無言で思い出していたところでした。

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古川日出男×小島ケイタニーラブ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京

http://www.youtube.com/watch?v=xB5TJxWz95Y

古川日出男×黒田育世×松本じろ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京
http://www.youtube.com/watch?v=SEP1S4YCaoU&feature=related

古川日出男×黒田育世×松本じろ×小島ケイタニーラブ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京
http://www.youtube.com/watch?v=_bEp4h2hWY8
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2011年8月30日火曜日

「人間になりてえ」

片づけをしていて、深いところまで手をのばしたら、
カセットテープをしまいこんだケースが出てきました。
中学、高校時代に聞いた懐かしい曲名がたくさん。


ラジオ+CD(故障)+カセットテープが再生できるミニコンポにかけてみたら、
初めのカセットと次のカセット(ラテン音楽)は、
かたん、と止まって、とり出してみたら
テープがびろー、とだらしなく出ていて
音楽を聴くどころではありません。
なんと無残な。

しかし三本目は、なぜだかちゃんと再生できました。
久しぶりに聞く長渕剛は、歌詞がいちいちガツンと聞こえてきます。

アルバムの表題作は、Captain of the Shipという曲ですが
一曲目の「人間になりてえ」と、
三曲目の「ガンジス」と
 (歌のなかの「東京へ帰る」という一節が、今聞くと、なんとも複雑に聞こえます。
 「とんぼ」の歌詞を思い出してみると、さらに。)、
それからこのアルバムを貸してくれたともだちが感じ入っていた「12色のクレパス」
が、とくに強烈に耳について、
90年代前半のいろんなことを思い出し、現在のいろんなことに考えがめぐっていきます。

途中で裏返さなきゃいけないのも、なんだか懐かしい動作でした。

このテープは、のびないでほしい…


(追記:よく考えれば、テープがのびるというのは、
 複製したものの、自然なありかたなのかもしれません。

 当時の私(中学生)にとってCDは高価なもので、
 おいそれと買うことはできなかったけれど
 今なら、ちゃんとした形で購入することができる。
 つまり、古いテープは、そっと、とっておけばいいのですね…)


2011年8月29日月曜日

「旅して、語り伝える」

田村さと子先生の『百年の孤独を歩く』について、
「旅して、語り伝える」と題して書いた書評が
現代詩手帖、2011年9月号に掲載されました。

『百年の孤独を歩く』と、ガルシア=マルケスの作品の数々、
そしてガルシア=マルケスの自伝『生きて、語り伝える』が
書店の書棚から、ひとりひとりの部屋の書棚へうつるための
かすかなきっかけになれば幸いです。


ちなみに、この9月号では
かの伊藤比呂美さんについての充実した特集が組まれています。
暑さがやわらいで、気を抜くと疲れが出てきそうなこのごろに
読むと、なにか、切り花の茎から根が生えるような、変化が起きる感じをおぼえます。




2011年8月25日木曜日

嗅覚の旅

札幌のモエレ沼公園の、ガラスのピラミッドで
管啓次郎さんの詩と佐々木愛さんの絵の展示「Walking 歩行という経験」
が、9月4日まで行われています。

(詩と絵の関係は、
 二羽からなる、小さな渡り鳥の隊列のようで
 互いに同じ方位をめざし、同じ風にのり、
 しかし自らの羽ばたきによってそれぞれが飛んでいる、という感じを受けます)


8月6日、札幌でもひどく暑い土曜日の朝、
モエレ沼の水源をめざして、てくてくと歩くウォーキングイベントがあり、
帽子をかぶって、飲み水を携えて、歩く列に加わって来ました。



途中、上空からぴーひょろろと聞こえてきたので
「あっ、とんび」と、つい誰かに言いたくなって、後ろを振り返ると、

絵美さんという元気な女性が
「とんび、よくいますよ。わたし、北海道出身なんです」
(カラスがとんびの声を真似ることもあるらしい)

大学院で学ぶために4月から東京に暮らしていて、今回は初めての帰郷だ
と話してくれたので、
北海道を離れて東京に住んで、戻ってみて、いま何か思うことはありますか、
とたずねると即座に

「におい、ですね。
札幌はこんなにおいがしていたのか、と、初めて意識しました」

たしかに、前日に行った東川町でも、モエレ沼付近でも、
風に複雑で豊かないいにおいが満ちていることに、うすうす気づいていた。

そこで、「草の、いいにおいがしますよね。」
と言ってみたところ、
「これは、川のにおいですよ。」

たしかに、わたしたちは、小川の脇を歩いていた。
目を丸くして、絵美さんのほうを見ると、

視線を受けて、あらためて風を吸い込んだ彼女が、こんどは
「上のほうは川のにおいがして、
 下のほうは、草のにおいがします。」

風のにおいに層があるなんて、
思ったこともなかった。

知れば、意識すれば、
うまくすれば、いつかそれをかぎわけられるかもしれない。

そういえば、テオティワカンの月のピラミッドのてっぺんで
門内幸恵さんは、いいにおい、と
何度も、嬉しそうに、深く、深く、息を吸い込んでいた。
幸恵さんの感じている世界も、きっと私などよりずっと複雑で豊かなのだろう。



2011年8月24日水曜日

ろうそくの灯が一つでもあれば

2011年8月8日、勁草書房から
管啓次郎・野崎歓編『ろうそくの炎がささやく言葉』という
詩や短編のアンソロジーが刊行されました。

大切に、大切に、
しずかに読んで、声におこして読んで、
何度でも読み返したい本です。

私がはじめてこのアンソロジーにおさめられた作品を「読んだ」のは
刊行に先だっておこなわれた朗読会のときでした。

実際には、「読んだ」のではなく、朗読を「聞いた」のが、
このアンソロジーの「読書」体験の幕開けでした。
6月末の、ある夜のこと。(表参道にて)

ふんわりといい香りのする、ちらちら揺れるろうそくの光を受けて
声に出され、耳から「聞く」ことばは、
驚くまでに鮮やかで生き生きとしたイメージの広がりを可能にし、
同じ空間(朗読会の会場)が、
「読む」ひと(作者・詩人)の声によってまるで異なる場所になってしまう、
強烈な、穏やかな、刺激的な、幸せな夜でした。

このような強烈な「予・読書」をした後、
8月に本が手元に届き、こんどはひとりで、黙って、文字として読みました。
そして次に、作者以外の読み手の朗読で「聞く」、という体験をしました。(札幌にて)
ついで先日、作者および訳者のかたがた、それから装丁を手掛けたかたの朗読で「聞く」
という体験をしました。(青山にて)

さて、家に帰って、改めて本を開くと、
アンソロジーに収められた作品のかずかずが
まるで、小さいころに
何度もくり返し読んだ絵本だとか
何度もくり返し歌ったうたのように、
とても親しい、大切なことばとして、身にしみこんでいることに気づきました。

この現象、というか、出来事というのか、
このことについて、頭で理解し説明するのが難しいのですが

執筆者のかたがたが、
震災と津波と事故をおもい、2011年初夏の日本の状況を前にし、
それぞれの仕方で、ことばをつづった、
そのことばの書かれた状況の強度、あるいは緊張感、とでもいえるようなもの
(それを越えたところで文章が書かれ、文字となり、印刷されたということ)が、
きっかけになって起こったことなのでしょうか。


その昔(と言っても、地球の歴史からすればつい最近)
印刷術が発達していなかったころ、
本は「聞く」ものだったということ、

ちいさいころ、まだことばもほとんどわからず、
ましてや文字など読めなかったころ、
本は「聞く」ものだったということ、

ある場所にろうそくが一本あり、
その灯りに照らされて本を「読む」声があれば、
その作品の「灯り」をうけとる人は無数に開かれているということ。

いろいろなことを考えながら、
今夜ももういちど、ページを開いてみたいアンソロジーです。

長くなりますが、以下に、執筆者とタイトルをうつしておきます。
(勁草書房ホームページより引用、

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ろうそくがともされた[谷川俊太郎]

赦(ゆる)されるために[古川日出男]

片方の靴[新井高子]

ヨウカイだもの[中村和恵]

ワタナベさん[中村和恵]

わたしを読んでください。[関口涼子]

白い闇のほうへ[岬多可子]

今回の震災に記憶の地層を揺さぶられて[細見和之]

祈りの夜[山崎佳代子]

帰りたい理由[鄭暎惠]

ジャン・ポーラン よき夕べ[笠間直穂子訳]

哀しみの井戸[根本美作子]

文字たちの輪舞(ロンド)[石井洋二郎]

マグニチュード[ミシェル・ドゥギー/西山雄二訳]

エミリー・ディキンソン (ひとつの心が…)[柴田元幸訳]

インフルエンザ[スチュアート・ダイベック/柴田元幸訳]

この まちで[ぱくきょんみ]

箱のはなし[明川哲也]

ローエングリンのビニール傘[田内志文]

あらゆるものにまちがったラベルのついた王国[エイミー・ベンダー/管啓次郎訳]

ピアノのそばで[林巧]

めいのレッスン[小沼純一]

語りかける、優しいことば──ペローの「昔話」[工藤庸子]

しろねこ[エリザベス・マッケンジー/管啓次郎訳]

月夜のくだもの[文月悠光]

樹のために──カリン・ボイエの詩によせて[冨原眞弓]

天文台クリニック[堀江敏幸]

地震育ち[野崎歓]

日本の四季[ジャン=フィリップ・トゥーサン/野崎歓訳]

フルートの話[旦敬介]

川が川に戻る最初の日[管啓次郎]

あとがき

写真家、装幀家より[新井卓/岡澤理奈]
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忘却に抗う百日の紅



ある年の夏から、百日紅(さるすべり)の花が目に留まるようになった。

可憐に見えるのに、
ひとが噂を忘れてしまうだけの日数を過ぎてもなお、
「忘却の柔らかい花」に抗して、
紅に咲き続けるつよさをもった花なのか。






2011年8月20日土曜日

「取扱説明書」

無機質な文章のはずなのに、
そこに勝手に(誤って)感情を読みとって、ぎくっとした。


 「傷ついた電源コードを使用しないでください。」




1999年、2011年

佐藤雅彦さんの『毎月新聞』(毎日新聞社、2003年)を
久しぶりに手にとって、ぱらり、ぱらりと読んでいたら

7, 8 年前には読み飛ばしていたであろう箇所に、ぐいっとひきとめられました。
引用します。

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僕はその日、雑誌の対談でひとりの経済学者の方と食事を共にしました。
 その著名な経済学者は、にこにこしながら、まずこう切り出したのです。

  「佐藤さん、エコノミクス(=経済学)って、元々どういう意味なのか、
 想像できますか」

  【中略】
 
 それは2年半も前の出来事でした。
 そして、僕の答えを楽しそうに待っているその人とは、
 その頃すでに気鋭の経済学者として注目されていた竹中平蔵さんでありました。

 竹中さんは続けました。
 「エコノミクスって、ギリシャ語のオイコノミックスという言葉からきているんです。
 オイコノミックスとはどういう意味かと言いますと、共同体のあり方という意味なんですよ。
 
 『共同体のあり方』、僕はその一言に打ちのめされ、少なからぬ感動も覚えた。
 
 「自分が個人として、どうしたら幸せになれるか」という事ではなく、

 「自分を含めた私たちみんなが幸せになるためには、
 私たち共同体はどうあるべきなのか」
 を追求する学問がエコノミクス、つまり経済学の始まりであったわけなのだ。

(佐藤雅彦『毎月新聞』第14号、1999年12月15日発行、
 『毎月新聞』単行本 p. 34より引用。中略、改行は引用者)
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この引用の後には、消費税の大義を論じる箇所が出てきて
(当時は故・小渕氏の自自公連立政権下)
そこは、どんなものだろう、と、個人的には納得しきれないのですが、


1999年12月15日に佐藤雅彦さんが発表した文章を
「経済」というものの意味を、根底から問い直したくなる
2011年の夏に、東京で、読み返したときに、
ここで引用した箇所のうしろのあたりが、ずしんと響きました。


2011年8月4日木曜日

40年

方位磁石がほしくて文房具店に行ったら、
「店じまいセール」の黄色い紙が、店内のあちこちに掲げてあるのが見えて
どきっとした。
ここは、年がら年じゅう「店じまいセール」をしているようなお店とは違う。

武蔵小金井駅の北口、「長崎屋」の三階に入っている小さな文房具店。
店主のおじさんは、
文房具が好きで、お客さんと話すのが好きで、
という感じのにじみでているようなかた。

移転するんですか?ときいてみたら、

ほんとうにお店をたたんでしまうんですよ、と。


40年、お店をやっていたからね、さびしいですよ。


近くに、売り場面積の大きな、
品ぞろえのいい文房具店が出店したから?
そのお店のはいっている新しくて大きい商業施設へ人の流れが向いてしまったから?
「なぜ」と聞いても、この場合には取り返しのつかないことだから、聞くのはやめた。


店じまいセールは、全品3割引き、利益はなし。
ただ、店にある文房具を、それを使って命をふきこむひとへ渡すだけ。

今すぐには必要でない替えインクも買ってみた。
レジに表示される合計金額の数字がぱっと下がるのを見て
なんだか申し訳ないような気分になる。

でも、どうせ買うならば、応援したいと思うお店で買いたい。
もう、取り返しはつかないのだけれど。


また、何か必要なものがあったら、来てくださいね。


店じまいセールは、今月の末まで。
それが終わったら、ほんとうの店じまい。


安いから買う、という行動パターンが
あちこちで、理不尽な事態を生んできた・生んでいるように思える。

巨大な仕組みを変える可能性があるのは
トップダウン式のやりかたよりも
むしろ、小さな動きの集積による、うねりの変化かもしれない。