2011年4月20日水曜日

来し方への近づき方、行く末への対し方

どうしても書かずにはいられないこと。

第二次世界大戦の後、現在に至るまでの日本の
生活様式の変化や、考え方の変遷についてちゃんと知っておきたい、と
3月11日以降、ずっと考えていたのですが

昨日、運命的な出会い、
と呼びたくなるようなもののおかげで
『週刊朝日』に掲載された書評(「週刊図書館」)の
ダイジェスト版、全3巻を手に入れました。
刊行は1993年、監修は丸谷才一氏によるものです。

第一巻 1951年から1969年 (昭和26~44年)
第二巻 1970年から1984年 (昭和45~59年)
第三巻 1985年から1991年 (昭和60~平成3年)

朝鮮戦争のさなかから、バブル崩壊まで。
この時期の日本で、どんな本が出版され、紹介され、
そして、それらがどのような視点で論じられるのか。

電車のなかで、まずは1968年に書かれた評を読み始めてみたのですが
これは、夢中になる面白さです。

オンライン上の古書店に出ているのを見かけましたが
各地の公立図書館にも所蔵されている類の本であると想像します。
所蔵を調べるには、各巻の書名がわかると便利だろうと思うので
以下に記します。

1.『春も秋も本!』
2.『ベッドでも本!』
3.『本が待ってる!』



1943年~1946年、世界的な戦乱の時代にメキシコでは
Octavio G. Barreda, Xavier Villaurrutia, Octavio Paz らが中心となり
『放蕩息子』 El Hijo Pródigo という文芸雑誌を刊行していました。

この雑誌の編集方針の核にあったのが
「現実と想像力」 Realidad e imaginación の、二本立て。

それに加えて、
現在への視線と、過去への視点を併せもち、

それらのバランスをうまく保つ、という
ぜひ自分も見ならいたいと思う姿勢が、この雑誌では実践されていた。

そのことを、思い出します。


Dos Gardenias を聴き

昨日、4月19日の午後1時から4時10分の間に
一緒に Ibrahim Ferrer 歌う "Dos Gardenias"
を聴いたひとたちが、もし縁あって、このページにたどりついたら。

キューバを撮った映画で、
私がほかに好きなのは
・『キューバ・フェリス』 "Cuba Feliz" (2000年)
・『永遠のハバナ』 "Suite Habana" (2003年)
です。

ストーリー性がある作品が好きならば、
・『バスを待ちながら』 "Lista de espera" (2000年)も、
いいかもしれない。
・『ビバ!ビバ!キューバ!』 "Un paraíso bajo estrellas" (1999年)
 は、ドタバタのラブコメディーだけれど、
 映画から脱線して、
 こんな人種構成の複雑さを生んだものは、何?
 どんな歴史があった?
 と、あれこれ疑問を広げていく取っ掛かりにも、なるかも?
 
どれも、日本語字幕つきで見ることができます。

それにしても90分×15回、なんと、短いことか。
でも、その短いなかで
あちこちの世界へ続く「扉」みたいなものを開くお手伝いができれば
それほど嬉しいことはありません。

一人ひとり、世界・社会を見る目を持ち、考えを持って生きていますが
教育を受け、人生経験を積んでいく途中のある段階で
「~~で当たり前」「~~であるべき」
と、考えを限定・固定化してしまったら勿体ない。
価値観も世界観も社会観(なんて言葉があるかわかりませんが)も人生観も
常に問い直される、書き直される、
豊かに・複雑にされる、
開かれた可能性を秘めたものだ、
と、こっそり(公に、長々と)囁いておきます。



2011年4月19日火曜日

「人の世は」


「人の世は悲しい。」
と、尊敬し敬愛する詩人からのメールにあった。
現在起きていること、
起きるまで、その危険に気づくことができなかったということ、
 (しかも、警鐘を鳴らしている人がいた、にもかかわらず。
  その声の存在すら、知ることができていなかった)
これから起きるかもしれないこと、、、
人の世は悲しい、確かに悲しい。

外を歩くこと、
仏像と「対話」をする人がいるように、
(私には、今のところそれができない)
木々を相手に対話をさがしてみることが、
私にとって、今を生きるひとつのよりどころになっている。
(でも、この梅の木だって、人が植えたものだ)

2011年4月17日日曜日

りんごの花びらが


詩人・翻訳家の、くぼたのぞみさんのブログで、
りんごの花がお好きでいらっしゃることを知り、
先日撮った、鉢植えのりんごに咲いた花の写真を載せてみます。


2011年4月8日金曜日

私があこがれる強さとは どんなものか?
はっと浮かんだイメージが、竹だ。

しなやかで、逞しい。
地面の中では、隣の竹や遠くの竹ともしっかりと結び合い、
結果として、土を支える芯の網を張り巡らし、
風を受ける部分では、
太陽に向けてまっすぐに伸び、青く瑞々しく、
しゅっとした葉をさらさらとたなびかせる。

その体は、笛にもなり、かごにもなり、
それどころではなく、よろづのことに使うことができ、
ときに、
おじいさんおばあさんのところへ月より遣わされた姫の
仮ずまいにさえ、なる。


2011年4月7日木曜日

「音と言葉と身体の景色」3月27日 (3)

今朝にひき続き、
「音と言葉と身体の景色 vol. 6」について。

書かずにいられないのは、
原発の事故が起きてから、いま強く感じている、やり場のない気持ちと
先日上演された第二作目、『椅子と伝説』に
ひびきあうところがあったため。

不条理演劇が書かれ上演されるのは
人間の社会に、現実に、不条理なことが起きるからなんじゃないか、
(乱暴な言い方をすれば) そう、客席で思った。

しかも、
作品の前半では、
いわれのない疑いを向けられた「男」と、彼を糾弾する者たちのやりとりが中心で
「男」に対して、「なぜ、こうやって切り返さないのか」と
(無駄とは知りながら)念じたりする余裕が、いくらか、あったのが
後半、
舞台上の「虚構」と、客席にいる自分の「現実」が、くっきりとつながってしまって
めまいがする思いだった。

「俺の目を刺したのは、だれだ」
「何故、止めなかった」

「そんなことが起きるなんて、思わなかったんだ」

「責任逃れをするわけじゃないんだ、
しかし、殺すつもりはなかったんだ」

(台詞は、私の記憶のなかで変化してしまっているかもしれません)

危害を加えるつもりはなかったのに、
そんなことが起きるなんて予想もしていなかったのに、
受動的な、無自覚的な、加害者となってしまうこと、
その、やりきれなさ。
舞台上ではなく、それが現実にも、起きていることに。

舞台は一旦終わるが、現実はここにある。



以下は、私と同じように、初めて公演を見た人たちへ。
身体の景色」のページに、謎の、「ワンピースの女」についての
ヒントかもしれない、と思う記述を見つけました。

トウガラシに二つ目の花がひらく



独立心旺盛で外向的な鈴蘭のように
下向きについた白いつぼみが
ひとつ、ひとつ、思い切りよく開いて咲くので、
下から見上げるようにすると、こんな風に見えます。

おしべが「リュウノヒゲ」の実の色に似ている。


「音と言葉と身体の景色」3月27日 (2)

先日(4月2日)の続きです。

要するに、
『舞え舞えかたつむり』はたいへんなテーマを扱ったもので、
見るのに相当のエネルギーが要りましたが
それでも見に行ってよかった、と思うのは、

まず、私にとってあの舞台が、
「こたえ」ではなくて、「問い」を発するものだったから、
なのだと思います。

 「いま必要なのは
  断言することばではなく、問いかけることばだ」

と言ったのは、誰だったか、、、
(ごく最近、日本語の音として聞いたのかもしれないし、
あるいは少し前に、スペイン語の文字として目にしたのかもしれません…)

それから、深刻な主題、深刻な展開を、真剣に追って見ていると
「脳が緊張状態になっている」ような感覚を持つのですが
あの舞台では、
深刻な中に突然、可笑しなひとが出てきたり、
可笑しな動きが混ざったり、
場違いな懐メロがかかったりして
(しかも、BGMとしてかかるのじゃなくて、音楽が役者を動かし・躍らせ舞台を支配する)
一瞬 「え!」 と思い、
それから、ふっと、脳と全身の緊張が解けて
全身ガチガチになりかけて(おそらく、登場人物に自分を同化しすぎて)いたのが
外から見ているちょっと冷静な感覚を取り戻せる。
それで、問いは受け止め、かつ、打ちのめされずに、いられる、のか。

なんだか、考えすぎのようですが
一作目については、こんなことを考えました。




2011年4月6日水曜日

想像力や技術の使い方

朝の3分間に。



森に住む鳥や動物や虫たちの反応も見てみたい。
途中で聞こえる鳥たちの声は、なんて言っているのか。

Edu、教えてくれてありがとう。



2011年4月4日月曜日

空想的電車

「その電車には、
 発電車両と呼ばれる車両があり
 そこには、通勤(通学)しながら筋トレしながら発電しよう
 という都会の乗客たちが、乗り込んでゆくのだった。

 特殊な吊革が、
 見慣れた位置にも、 また、天井からも、いくつもぶら下がっていて、
 それを引く力によって発電することができ
 全車両の、ほの明るい照明や
 冬・夏の最低限の空調の大部分は、そうしてまかなうことができる。

 その車両から降りる人は、
 そこへ乗り込む人と、ぱちんと手を合わせる習慣が
 いつの間にか、うまれていた。

 この先は、頼んだぞ。よしきた。任せとけ。

 吊革の長さはいくらか調節もできるのだが、
 特別に、長くしつらえられたものもあり、
 それは、発電車両の常連となった大人たちに憧れる
 こどもたちのためのものであった。」 
 

ゆるカワ よりも断然 フルカワ

電車の吊り広告(まだ、だいぶスカスカだ)に
ファッション誌の「ゆるカワなんとか」特集、という文字を見かけた
そのとき、自分の手元には、古川日出男さんの本。

ゆるカワを目指す、なんていうのもひとつの道だけど
私としては断然、フルカワさんの本を読みながら
しなやかに逞しくなってゆくほうが、ずっと魅力的だと思う。
 (もとより、かわいさを目指すトシでもないというのは置いておいて。)

古川さんの作品を読みながら思うのは
それを通じて自分に起きてゆく変化。

アスレチックのような感じのものもあり (楽しみながら野生の勘を取り戻していく)
筋トレのような感じのものもあり (必要な強さを、鍛えて、身に着けていく)
手ぶらで土の地面を歩いていくような感じのものもあり (五感の鮮やかさが自然と取り戻される)
奇跡って、起きるんだったね、と思い直すよう誘われる感じのものもあり
世界の隠された部分を見る洞察力を、呼びさまされるものもあり

これから出会うであろうゆるカワな女の子たちに、
いずれ、フルカワさんの本をすすめてみようか。

2011年4月2日土曜日

「音と言葉と身体の景色」3月27日

3月27日、「ことばのポトラック」の会場を出たあとに
日暮里へ、「音と言葉と身体の景色」の演劇を見に行きました。
「身体の景色」の岡野さんと共に演出を手掛けた田中君、
誘ってくれて、ありがとう。おかげで見逃さずにすみました。

別役実さん原作の戯曲の二本立て、
濃い一時間半でした。

作品の"意味" を理解しようとしなくても、いいんだ、という声もありますが
私が思うには、投げかけられているものを見過ごしたらもったいない、
ただ、唯一の正解としての"みせる側の意図" に迫ろうとするような見方ではなくて
観客席で見ていた自分にとって、そのとき、その場で、どんな意味がうまれたのか
ということを観察したり、そこからあれこれ考えをめぐらせたりすることが
作品を、しかと受け止めることになるのじゃないか。

そのようなスタンスで、
以下、田中君に宛てたコメントのようなつもりで
作品を見た私に生じたあれこれを書いてみます。
(見てからほぼ一週間経った今も、
 まだ 頭のなかの"濁り" のようなものが澄み切らないのですが)

まず今夜は、一作目について。

・『舞え舞えかたつむり』

実際に起きた殺人事件を題材にした作品ということで
はじめ、少し身構えてしまいました。
生身の人間が生きた苦しみ、痛み、悲しみを、
第三者が「作品」として取り上げ、演じて、また別の人に見せる、というのは、
生半可な覚悟ではできないことだと思うから。

けれど、
夫を殺した妻のことばが、
取調官の口からも、
そして殺された夫か警官かはたまた蠅なのか判然としないおかしな男の口からも出てきて、
声に重なる声が錯綜し、
調書を印刷した紙がばらまかれ、錯綜し、並べられ、また錯綜するのを見、聞き、するなかで

始まる前に自分が感じていた "気おくれ"あるいは警戒心のようなものは、拭い去られました。
舞台から、問い のようなものが、次々と、発せられているように感じたから。

警察官が調べて跡付ける「事件の動機」に対する
無機質な文章として書かれるような「事件の筋書」に対する
そうした筋道をつけて「動機を解明する」ことそのものに対する
強力な問い
 それで、何が晴れる?
 そんな問いは、"調べられて" いる本人が、
何度も何度も何度も繰り返したことなのに、
 それを第三者が問うて、
 手に入る手がかりだけを基に、解釈をひねり出して、どうなる?
また、
 誰が "当事者"なのか?
あるいは、
 誰が"当事者でない"のか?
つまり、
 どんな人間が、あのような絶望を前に、耐えることができるのか?
 理由がわからないことに対して、頭を抱えたのは、誰なのか?
 「なぜ殺害を思い立ったのか」、「いつ」、と問いかけているのは、誰なのか?
そして、
 答えているのは、誰なのか?
また、
 「真相」の解明など、誰にできるのか?
そもそも、
 唯一の「真相」 があるという考えも、虚構なのじゃないか、、、?

(第二作『椅子と伝説』 に続く予定)







2011年4月1日金曜日

4月の魚 改め、4月の鳥

一度見たら忘れられない、大好きな映像です。
飛べ!


               (4月1日)