2011年4月2日土曜日

「音と言葉と身体の景色」3月27日

3月27日、「ことばのポトラック」の会場を出たあとに
日暮里へ、「音と言葉と身体の景色」の演劇を見に行きました。
「身体の景色」の岡野さんと共に演出を手掛けた田中君、
誘ってくれて、ありがとう。おかげで見逃さずにすみました。

別役実さん原作の戯曲の二本立て、
濃い一時間半でした。

作品の"意味" を理解しようとしなくても、いいんだ、という声もありますが
私が思うには、投げかけられているものを見過ごしたらもったいない、
ただ、唯一の正解としての"みせる側の意図" に迫ろうとするような見方ではなくて
観客席で見ていた自分にとって、そのとき、その場で、どんな意味がうまれたのか
ということを観察したり、そこからあれこれ考えをめぐらせたりすることが
作品を、しかと受け止めることになるのじゃないか。

そのようなスタンスで、
以下、田中君に宛てたコメントのようなつもりで
作品を見た私に生じたあれこれを書いてみます。
(見てからほぼ一週間経った今も、
 まだ 頭のなかの"濁り" のようなものが澄み切らないのですが)

まず今夜は、一作目について。

・『舞え舞えかたつむり』

実際に起きた殺人事件を題材にした作品ということで
はじめ、少し身構えてしまいました。
生身の人間が生きた苦しみ、痛み、悲しみを、
第三者が「作品」として取り上げ、演じて、また別の人に見せる、というのは、
生半可な覚悟ではできないことだと思うから。

けれど、
夫を殺した妻のことばが、
取調官の口からも、
そして殺された夫か警官かはたまた蠅なのか判然としないおかしな男の口からも出てきて、
声に重なる声が錯綜し、
調書を印刷した紙がばらまかれ、錯綜し、並べられ、また錯綜するのを見、聞き、するなかで

始まる前に自分が感じていた "気おくれ"あるいは警戒心のようなものは、拭い去られました。
舞台から、問い のようなものが、次々と、発せられているように感じたから。

警察官が調べて跡付ける「事件の動機」に対する
無機質な文章として書かれるような「事件の筋書」に対する
そうした筋道をつけて「動機を解明する」ことそのものに対する
強力な問い
 それで、何が晴れる?
 そんな問いは、"調べられて" いる本人が、
何度も何度も何度も繰り返したことなのに、
 それを第三者が問うて、
 手に入る手がかりだけを基に、解釈をひねり出して、どうなる?
また、
 誰が "当事者"なのか?
あるいは、
 誰が"当事者でない"のか?
つまり、
 どんな人間が、あのような絶望を前に、耐えることができるのか?
 理由がわからないことに対して、頭を抱えたのは、誰なのか?
 「なぜ殺害を思い立ったのか」、「いつ」、と問いかけているのは、誰なのか?
そして、
 答えているのは、誰なのか?
また、
 「真相」の解明など、誰にできるのか?
そもそも、
 唯一の「真相」 があるという考えも、虚構なのじゃないか、、、?

(第二作『椅子と伝説』 に続く予定)