2008年9月30日火曜日

デジャヴュ街道:夜の朗読+即興演奏

会場は屋外にあった。
木・金曜と続けて冷え込んだ曇り空が土曜も残り、
夜となったらもっと寒い。


開演の7時少し前に会場入り。
7時を過ぎて、まだ空のステージを前に

客席は厚手の上着を着込んだ観客で見る間に埋まっていき、ほぼ満員となった。

野村喜和夫さん(詩人)と齋藤徹さん(コントラバス奏者)は二番目に登場。
硯友社のメンバーがラグビーボール大の卵をトライまで運ぶ実況中継風の
 「硯友社跡の無限」、 

空が鏡のように地上を映し出すというイメージから生まれた
 「デジャヴュ街道」、

虹と蛇という漢字の「虫」に着想を得た
 「街の衣のいちまい下の蛇は虹だ」


事前に伺っていたお話のまさにその通り、
「楽器としての声」とコントラバスの
やりとり、反応、相互作用が
刺激的で面白くて、すっかり耳は釘付け(裏手にいたので目は釘付けにできなかった)。

私にはひとつひとつ意味を持って聞こえていた「ことば」が
ほぼ「音」として聞こえていたであろうメキシコの観客も
一篇終わる毎に わっと沸き、最後には立ち上がって拍手をしている人たちもいた。

詩の朗読と演奏のコラボレーションは、
詩に曲をつけた歌よりは、「ことば」の比重が高い。
詩の朗読だけよりは、イメージを広げるのが易しいだろうけれど


土曜のステージは、
一人目がフランス語と英語、二組目は日本語、三人目はスペイン語だった。
ことばとは、まったく不思議なものだ。

何かが「伝わる」、何かを「共有する」とは……

2008年9月27日土曜日

明日、カサ・デル・ラゴにて Mañana en "Casa del Lago"

9月27日土曜日、夜7時から
チャプルテペック公園のカサ・デル・ラゴ脇の特設ステージにて
詩人の野村喜和夫さんとコントラバス奏者の齋藤徹さんの
朗読+即興演奏のパフォーマンスがある。

詩人であり、UNAMで論文指導してくださっているPedro Serrano先生の紹介で
今日の新聞Reformaの取材、明日のリハーサルと本番に、ささやかなお手伝いをすることになった。

少し緊張して行ったものの、
詩人、音楽家おふたりのお人柄に、ほっと肩の力が抜けた。
明日も楽しみだ。

以下のリンクから、お二人の紹介と、明日読まれる詩 [日本語もあり]
のひとつを見ることができます。

http://www.casadellago.unam.mx/site/index.php?option=com_content&task=view&id=219&Itemid=95

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Mañana el sábado 27 de septiembre,
hay un evento de "Poesía en voz alta" en la Casa del Lago del Bosque de Chapultepec.
Ahí, van a presentar poeta japonés Kiwao Nomura y contrabajista Tetsu Saitoh.

En el link que puse arriba, pueden leer las presentaciones de ellos
y un poema del poeta Nomura que van a presentar mañana.
Hoy los ví, en la entrevista con un periodista, son encantadores.

Empieza a las 7 de la noche,
¡ojalá que no llueva, que vayan muchas personas y disfruten el evento!

2008年9月25日木曜日

1968+40=2008

前衛のゼミの予定表を見て、ヘイセルが「10月2日は休みではないんですか?」と聞いた。
何の日だろうと思ったら、1968年にトラテロルコ広場で起きた学生運動弾圧・虐殺事件の日だった。

今日の新聞Universal紙には、1968年11月2日、
事件から一ヵ月後の広場を映した未公開映像が載っていた。
http://www.eluniversal.com.mx/primera/31691.html

マセドニオ・フェルナンデスの短編を読んだ。

「家族皆殺し」を行った人物が罪の意識に耐え切れず記憶切除手術を受け
その「精神外科医」の告発によって死刑になるが
 (過去と同時に未来のことを考える部分も切除したため、彼は平穏に最期を迎える)
処刑後、実はその殺人の過去というのは、
退屈な毎日に飽きた主人公が「外科」手術で移植してもらった記憶だったとわかる。


考える。
「過去」はどこにあるのか? 記憶のなかに。
形を失ってしまう「過去」はどうやって伝えられていくのか?
声に、文字に、イメージに、何かしらの形にして。
脳から出て、何かの形になれば、それは「現実の過去」として認識される。

「過去の出来事」の本来の姿は、どこにも残らない。
「本来の姿」という到達し得ないものに少しでも近づこうとし、
その姿が恣意的に変形されていくのに抗すること、
それが、「表現」の一つの機能なのかもしれない。

「恣意的な変形」も表現によるものならば、それに対抗できるのも、表現。

2008年9月24日水曜日

荒木珠奈さんの展示が見たい

日・西二ヶ国語のフリーペーパー『Zetten セッテン』を開いたら
荒木珠名さんの名が目に飛び込んできた。
オアハカの美術学校で講師をしたときの体験が語られていた。

荒木さんの作品を初めて見たのは、
去年、桜の咲く頃に、西武国分寺線 鷹の台駅近くのギャラリーで
パトリシア・ソリアーノさんと共同の二人展「二匹」を見に行ったときのこと。

ラジオUNAMのアナウンサーの紹介で、
パティさんにメキシコで一度会っていたのがきっかけだった。

荒木さんの作品は、一枚だけの絵本のような、
そこを入り口に、時間、空間、物語が広がっていくような感じがした。

今年は、8月9日から11月3日まで、森美術館ギャラリー2
オアハカで構想、制作の大部分を行ったという作品の展示をしているそう。
森美術館での展示は、絵ではなく、インスタレーションのようだ。

見に行けないのが残念。
どなたか、見に行く機会があったら感想を聞かせてください。

2008年9月23日火曜日

「うんざり」さんの詩的な一節 -Juan Emar-

ラテンアメリカ前衛のゼミで、今日はJuan Emar の短編集『十 (Diez) 』(1937) を読んだ。

本名Álvaro Yáñez Bianchi、パリに暮らしたことのあるチリ人の彼のペンネームは
フランス語の "J'en ai marre" (うんざりだ) の地口だと言う。

奇想天外な発想、神秘主義的な側面、パロディー……
作品によっては、正直言って訳がわからない。
有名になったのは、ネルーダの序文つきで1971年に再刊されてからのことらしい。

短編集のなかでも訳がわからなかった作品「ラ・カンテーラの地所 (El fundo de La Cantera)」
に、一番気に入った一節がある。


「暗くなった。しかし、太陽の粉がいくらか残った。
葉には緑の、地面には黄土色の、花には赤の粉。
腰の曲がった老人が、スコップとほうきでそれを集めていった。
集めた粉を
荷車に入れると、残った太陽とともに遠ざかった。
何軒かの酒場を通り過ぎて角を曲がり、そして夜になった。」

2008年9月22日月曜日

仕事を見つけるまでの間

バスの中にも、物を売りに乗ってくる人たちがいる。
お菓子だったり、アイスキャンディーだったり、電池だったり。
運転手さんに許可を得て乗り込み、売り、ありがとうと言って降りていく。

今朝見た人は、いつもと少し違った。
髪を短く刈った、若い男の人。

スーパーで売っているような飴の袋の口を開いて、両手で持っている。

少し小さめの声で、話し始めた。

「ご迷惑かもしれませんが、飴を売りに来ました。
 実は、わたしは刑務所から出てきたばかりです。
 盗みをはたらいて、捕まったのです。
 
 以前は、いつも安易な道をさがしていました。
 その結果、刑務所へ行くことになったのです。
 そして楽に生きる道をさがすことのおろかさを知りました。
 
 こうして出てきて、仕事を見つけるまでの間
 私は飴を売ろうと決めました。
  
 この飴には決まった値段はありません。
 助けを貸してくださる方があれば、
 よろしくお願いします。」

前の席のおじさんが大きな硬貨をポケットから出し、
ひょいと手で合図をした。
少し考えて、私も飴をひとつ買った。
ほかの席からも、合図が起こった。

治安改善策を要請する声が高まる今。
あちこちの席から手渡される硬貨には、
この心が広まるように、という祈りのようなものがこもっているようだった。

2008年9月21日日曜日

種は見つけるもの

数日前の管啓次郎先生のブログに触発されて、
赤い表紙の小さな手帳に「種」集めをはじめた。

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将来の一、二年生ゼミでひとつ考えているのが、「思考の種子」集め。せいぜい二行くらいにまとめられる発想の種を、一日につき三つ、一週間で二十一くらい、ノートに書き溜めてゆく。

たとえば武満さん自身の例をあげるなら、こうなる。

「イルカの交信がかれらのなき声によってはなされないで、音と音のあいだにある無音の間の長さによってなされるという生物学者の発表は暗示的だ」

こんな風に石つぶてのようにまとめた短い言葉を、日々反芻しつつ考えること。それが「連結的人文学」の基礎的な作業になるだろう。

(9月12日、MON PAYS NATAL より引用)
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一日三粒の種を集めようとしているうちに、
今までぼんやりしていた様々な待ち時間にも目や頭に血が通い始めた感じがある。

たかが石鹸、されど石鹸

たびたび勉強しに行く近所の図書館の、
お手洗いの
ハンドソープが、変わってしまった。

前の石鹸は、
L'Occitaneの緑茶香水に負けず劣らずとってもいい香りで、
席を立ったときから、すでに手を洗うのが楽しみになっていたほど。
中庭を深呼吸しながら歩き、席に戻ると、すっきりリフレッシュ。


新しい石鹸は、
ごく普通の「洗いました、清潔になりました」という香り。

前の石鹸が、心からなつかしい。
ああ、あの緑茶の香り。


たかが石鹸、されど石鹸。

オフィスや工場や学校で
「能率の上がる香り」「リフレッシュする香り」のハンドソープをトイレに導入したら

効果があるんじゃないかしら。

2008年9月19日金曜日

Domínuo Público, ブラジルの扉

Eduがブラジルの友だちから教えてもらったという、
ブラジル政府のデジタル図書・音楽・映像館のページ。

http://www.dominiopublico.gov.br/

文学では、トップページに載っているのは
Machado de Assis の作品、Fernando Pessoaの詩、
『神曲』、そしてシェイクスピアのポルトガル語訳などだが、
「テクスト」 + 「ポルトガル語」で検索したら、2057件ヒットした。

音楽も、トップページのブラジル国歌以外にもたくさんある。
(国歌ひとつ取っても、さまざまな音源が用意されていた)

利用者が少ないためにページが閉鎖されるかもしれないという。
閉めてしまわずに、利用者を増やすべく宣伝すればいいのに。

2008年9月18日木曜日

広場が二つに

9月15日の夜、雨の降るソカロへ
独立記念198周年の「Viva México!」を叫ぶ催しに行った。

各地方では、それぞれの広場で県知事や市長・地区の長が音頭をとって
独立に貢献した人物に万歳を、そしてメキシコに万歳を叫ぶ。
首都のソカロでは、音頭をとるのは大統領。

セキュリティ・チェックを通ってソカロにつくと
カテドラルの右手、国立宮殿側の大統領陣営は、華々しい舞台で音楽を演奏中、
左手には、2年前の「疑惑つき」選挙で敗れた党が陣取っている。

9時、左手の陣営のリーダーが演説を始め、右側の音楽が止んだ。
しんしんと降る雨の中、20分に渡る演説の後でViva México、Viva! のやり取りが。
右側はひっそり。

それが終わると、左手陣営は
「さて、これで我々は引き上げよう。
これ以後この場所に残るということは、向こう側の人だということ」

面白い説得の仕方。

左側が静かになると、右側は音楽を再開した。
人はいっとき少し減り、
残った人と、新たにやって来る人とで、雨の広場はまたいっぱいになった。


11時、宮殿のバルコニーに大統領が登場。
こちらは演説をせずにVivaのやりとりに移り、
それが終わると、音楽に合わせて国旗の緑・白・赤をつかった華やかな花火のセレモニー。

これだけはっきりした分裂が続いているのも強烈だが、
衝突を避けるための「住み分け」ができているのも面白かった。


2008年9月12日金曜日

キャンディーカラー郵便局

郵便局が模様替えをしている。

先日、荷物を受け取りに行ったときに
引越し中さながらの風情の局内の壁が、
白地に濃い桃色と黄緑にぬりかえられているのを見た。

昨日は、配達のバイクにその三色がほどこされているのを発見!
壁は一瞬うわっと思ったけれど、バイクはポップでかわいらしい。

郵便局のページ (http://www.sepomex.gob.mx/Sepomex)を見たら、
マスコットの配色が、白、ピンク、黄緑なのだ。
黄緑の封筒をくわえて届ける白い鳥。

きっと、白、赤、緑に、蛇をくわえた鷲の国旗から
着想を得たのではないだろうか?

あのかわいらしい郵便配達バイクが町中を走ったら、郵便のイメージも変わりそうだ。

早く確実に着くようになったら、もっといい。

2008年9月11日木曜日

サソリート


起きたら壁に小さなサソリ。
あまりの小ささに、定規をあてて写真を撮ろうとしたら

ぱっと床に落ちて、一瞬慌てた。
小さくても、刺すのだろうか?

雨季が続く間は、こういう来客が続くのだろうか。


ちなみに、サンテグジュペリのLe petit prince 、スペイン語版は Principito。

2008年9月10日水曜日

海を渡るホウレンソウ

冷凍ホウレンソウのパッケージの裏を何気なく見たら
ホウレンソウと書いてあって、一瞬目を疑った。

目を疑ったのは、あまりにもストレートに意味が頭に入ったから……
つまり、日本語で書いてあったから。

一度冷凍庫を閉じてから、今度はじっくり表示を見た。
日本語で記載されている横に、「この製品は日本にも輸出しています」とスペイン語で注記があった。
輸入会社の住所は、日本橋室町。 界隈の情景や空気を思い起こす。

海を渡るかもしれなかったホウレンソウ、
ハポンに着く前に、メキシコシティでバター炒めにしてしまおう。

2008年9月9日火曜日

何でもアリ

メキシコシティを南北に貫く大通りInsurgentesの専用レーンを走る Metrobus。
車体は普通の乗り合いバスに比べてずっと立派だし、
屋根だけの停留所ではなく、しっかりした駅がある。

昨日、南行きのバスに乗っていたときのこと。
Olivo駅を出て、 次はAltavista、その次が目的地Bombilla、もうそろそろ。

前方に見えてきたAltavista駅には、一本前のバスが停まっていた。
後ろについてしばらく待つんだな、と思ったら、運転手氏、何を思ったか
専用レーンから抜け出して普通車線に入り、Altavistaをパスして次の駅へ……

Altavistaで降りようとドアに近づいていたお兄さんは呆気に取られて
遠のいてゆく駅を振り返っていた。

2008年9月8日月曜日

Cineamano

金曜日、久しぶりに面白いものを見た。

FESTIVAL ESPEJOS SONOROS encuentro de voces múltiples
という「声」をテーマにした映画や音楽を集めた催しで、プログラムは以下の通り。

1.『声を求めて』 (En busca de una voz )というドキュメンタリー映画
2.Giacinto Scelsi, John Cage などの、音楽なのか声なのか音なのか?というような「曲」の演奏
3.歌いながら機材を使って声を重ねたり加工したりする一人の多重演奏と、Cineamano の共演
4.もはや歌でも音楽でもなく叫びのようなエレクトロニック音楽

とても気に入ったのは3番目。
ヴォーカリストのLeika Mochánのすっきりした声、
目の前で(耳の前で)見事に音が重なっていく様子にも釘付けだったけれど、
さらに、後ろのスクリーンに映し出された影絵が!

それこそが、Cine a mano。手描き映画、とでも訳せるだろうか。
歌の情景にあわせ、サラ、スッスッ、と砂絵を描いていく。単純な線だけで、なんと見事な。
次の曲が始まると、影の手によって静かに砂がどかされ、一曲間のvidaは終わり。

ロビーで小さなフライヤーをもらった。
下記のビデオを見たところ、cineamanoは砂絵だけではないらしいが、
私が見たのは画面左下に出てくるAlejandro Chávezという人のCineamano砂影絵。

http://www.myspace.com/cineamano

2008年9月3日水曜日

出入り口

この三日間、あることが続けて起こっている。

朝、シャワーカーテンをシャッと開けると、青い浴槽に心細そうな鈴虫。
夜の間は外でリンリンリンと心地よく鳴いていたのに、どうしてこんなところに?

最初の日は浴槽から降ろすだけで、どうにか逃げるだろうということにした。
(ドアは二つあり、ドアの下にはすきまもある)

昨日の朝、またいた。
きっと浴室から出られなかったのだろう、わるいことしたなと思い、
コップとちりとりをつかって、テラスまで出した。

夜はテラスの方からリンリンリン…

今朝。ついさっき、またいた。昨日は確かに外に出したのに。
また、コップとちりとりでテラスへ。

何かの「穴」、「出入り口」があるのだろうか?
何かよっぽど惹かれるものがあってその「出入り口」に近づくのだろうか。

一週間くらい前は、サソリがいて
メガネをかけておらず、何か虫が死んでいるのだと思って危うくつかむところだった。

「出入り口」が広がらないといい。

2008年9月2日火曜日

コミカルメトロ

メキシコシティのメトロには、時刻表がない。
車内放送も、構内放送もない。
(路線によっては、次の駅は…というアナウンスあり)

電車がなかなか来なくても、とにかくホームでじっと待ち、
電車が急に止まっても、車内で辛抱強く待つ。

昨日はTacubayaという始発駅で、乗れるかぎりぎりの電車をやり過ごしたら
次のが来るまで15分くらい待つことになった。
ホームは次第に人で埋まっていく。

と、左の方から空っぽの電車が姿を現した。高まる期待感。
電車が止まり、ドアの前には人だかり。さてドアが開く……と思いきや、
なんと、黙ったまま、もと来たほうに戻っていった。

そして、待ちかねた電車が、今度は右から。そういえばここは始発駅だった。
「終点」に着いた乗客たちも早く降りたそうな様子。

ドアの前には人だかり。さてドアが開く…と思いきや、
ちょっと考えた末に、電車は停車位置を大幅に変えた。人だかりは右往左往。
背後で「ふふふ」とおばさんが笑った。

私としては、出てきた電車が静かに戻って行った時点で既にかなりおかしかったが、
可笑しさを共有する人ができたとばかり、おばさんと顔を見合わせて笑った。

2008年9月1日月曜日

タイプライターの音

この八月は、今までで一番多くタイプライターの音を聞いた。

大学の図書館の利用証をつくったときに、コンピューターだけでなくタイプライターでも記録。
寒いけれど静かな近所の図書館では、事務室からタイプライターの音が響いてくる。
警察の医師が、診断を書き込むのにタイプライターでトストストス…
製本を手伝ってくれたタティアナの働くお店の倉庫では、叔母さんがタイプライターで注文票を記していた。

詩人ラモン・ロペス・ベラルデの散文に、
レミントン社のタイプライターでものを書く様子をピアノの演奏に喩えたものがあった。
タイプライターの音には、確かになんだか風情がある。

携帯電話で黒電話のリンリーンという音を鳴らすようなレトロ趣味を応用して
タイプライター型キーボード(キータッチの感覚も再現) 搭載のパソコンというのは…やはり使いにくいか。