2008年9月25日木曜日

1968+40=2008

前衛のゼミの予定表を見て、ヘイセルが「10月2日は休みではないんですか?」と聞いた。
何の日だろうと思ったら、1968年にトラテロルコ広場で起きた学生運動弾圧・虐殺事件の日だった。

今日の新聞Universal紙には、1968年11月2日、
事件から一ヵ月後の広場を映した未公開映像が載っていた。
http://www.eluniversal.com.mx/primera/31691.html

マセドニオ・フェルナンデスの短編を読んだ。

「家族皆殺し」を行った人物が罪の意識に耐え切れず記憶切除手術を受け
その「精神外科医」の告発によって死刑になるが
 (過去と同時に未来のことを考える部分も切除したため、彼は平穏に最期を迎える)
処刑後、実はその殺人の過去というのは、
退屈な毎日に飽きた主人公が「外科」手術で移植してもらった記憶だったとわかる。


考える。
「過去」はどこにあるのか? 記憶のなかに。
形を失ってしまう「過去」はどうやって伝えられていくのか?
声に、文字に、イメージに、何かしらの形にして。
脳から出て、何かの形になれば、それは「現実の過去」として認識される。

「過去の出来事」の本来の姿は、どこにも残らない。
「本来の姿」という到達し得ないものに少しでも近づこうとし、
その姿が恣意的に変形されていくのに抗すること、
それが、「表現」の一つの機能なのかもしれない。

「恣意的な変形」も表現によるものならば、それに対抗できるのも、表現。