2007年11月3日土曜日

歴史、きし、軋む (多和田さんの波紋)

多和田葉子さんと高瀬アキさんによる朗読+演奏のパフォーマンスを
両国のシアターXに見に・聞きに行った。

7時の開演を前に、座り心地のいい客席は見事に満席。
多和田さんも高瀬さんもベルリン在住ということもあり、
ドイツ人と思しきお客さんの姿もちらほら見られた。
全体に年齢層もいろいろ、服装もいろいろで、一人客もかなり多い。
右隣の若い女性は開演前からメモ帳を片手に何かを書き留めていた。

ふっと会場全体が真っ暗になり、後方にぽっと光が灯ったと思うと
それは文字を照らす小さな明かりで、そこから女性の声が聞こえてきた。
この声が、多和田さん。
後から考えれば、マイクを使っているのだから
ほんとうは別のところから聞こえていたのかもしれないが、
そのときは確かに光のところから聞こえる気がしていた。

即興のピアノと供に小説『飛魂』の断片が読まれ、
軽妙で
ちょっと妙でリズミカルで聴覚や視覚を自在に遊びまわる詩が読まれ、
「まっかなおひるね」の照明は真っ赤で
、透明なしゃぼん玉が面白いほどくっきり見え、
あーやーめ♪ あーやーめ♪  という声が耳に残り、
ピアノをトランポリンにして飛び跳ねるたくさんのぴんぽん玉の白さを面白がり、調律の人が見たら卒倒するに違いないと余計なことを考えてハラハラし、
ドイツ語はさっぱりわからないけれどきっと「鏡の月」は独・和で同じ詩を読んでくれたのだろうと推測し、
鬼が出てくる物語ってそういえばほんとうにたくさんあって漢字にもたくさんあって、でも一体鬼って何だと思い、
「くさ」合戦でピアニストが笑った「ほっとくさ」は本当におかしかったんだろうと思うとさらにくすくす笑えてきて、
手拍子机拍子と言葉の寄木細工のようなパフォーマンスを聞いて、詩の言葉は言語でありリズムであり音楽であり、これは楽しい
と、つい舞台上の言葉の流れる感覚を勝手に真似してみたくなり、
読み返してみるとこれは読むに耐えないけれどこの感覚を書き留めておきたいという誘惑には逆らえない。

新宿で友人夫妻と別れ、
電車で少し冷静に戻りながら『溶ける街 透ける路』を読んでいると、
多和田さんもフランスに行ったときに「ナントの勅令」って何だったっけと思ったり、「ルール工業地帯」や「ネアンデルタール人」から社会科の授業や受験勉強を思い出したりしているではないか。
そうか、多和田さんにも、黒板や教科書やノートで見たことばと、現実の空間が簡単には結びつかないという感覚があったんだな、とまた勝手な親近感を覚えた。


ヨーロッパの都市に行って、
教科書や教室で耳慣れた土地や人名や歴史的な場所に出くわして
「え、これがあの……?」「ああそうか、ほんとうにあったんだ」と思ったと書いたら、ともだちからも「あるある」という声をもらったが、
それもこれも日本では
「世界史」や「世界地理」という名前で詳しくヨーロッパの歴史や地理を教わるからなんだろう。

グルノーブルにいた頃、
隣人クレマンスと何だか歴史の話になりナポレオンの話になり、
「1804皇帝ナポレオン」をたよりに即位の年を言ってみせたら、
円周率を10分間暗唱し続けたくらいに驚かれたことがある。
フランスの「世界史」では日本の歴史はおろか、アジアの歴史も扱われず、
かたや日本の高校生がナポレオンについて習うのみならず、
さらに時代を遡って「ナントの勅令」の年号や教皇の名前まで暗記す
るのだとは、信じがたいことなんだろう。

世界の「中心」に近ければ近いほど、自分たちのことしか知らないということになるのか。
世界の「中心」から遠ければ、自分たち+「中心」のことを知らなくてはならなくなるけれど、
自分たちと「中心」のことだけ知っていても、「中心」から遠いところは無数にあり、
球体の全表面をカバーするのはとても難しい。

世界の歴史、と一口で言っても、ある場所だけが濃密で、多くの場所はスカスカで、
レキシのことを考えていると、頭の中がきしきし軋むような気がして、
こうしてみると、結局のところまだ「酔い」は醒めていないようだった。