2009年10月29日木曜日

自動車修理工場の秋

近所に、大きな庭を持った大きなお屋敷があり、
そのすぐ近くに小さな自動車修理工場がある。

今日の帰り道。
白髪のエンジニアが工場というか工房というか、
コンクリートの床を竹箒で掃いていた。

シャッターを下ろす前に、隣の庭から舞い込んで来る落ち葉を掃く、
これがきっと、秋の習慣となっているのだろう。

夏は蚊取り線香を焚いて車を修理するのか。
春には桜の花びらが舞ってくるのか。
冬は地面も車体も部品も工具も、キンと冷たくなるのだろう。

2009年10月28日水曜日

近所の秋

実より先に真っ赤になって地面に着いた柿の葉


家の近所には意外にたくさん畑が残っている。
野菜畑に果樹畑。

木の枝に、見慣れないごつごつした実が見えて、
なんだ?と思ったら花梨の実。

「かりんかー」と頭の中でつぶやいたら、
即座にスラヴ的なメロディーが響きだした。

カカリンカカヤ、といくらか勇ましく歩いていたら、
畑と雑木林だったはずの大きな一区画が がらん と広がって、
切り株がさびしく並んでいる。

腰に手を当てて遠巻きに眺めているおばあさんに声をかけてみた。

「お母さんとお父さんが亡くなったからねえ、
息子さんは歯医者でしょう? だから畑やってないし、
贈与税がほら、高いからねえ。財産があるのも、大変だよねえ。」

枯葉をかさかさ踏みながら歩いていて、思った。
命を終えて落ちた葉なのに、なんでこんなにいい香りがするんだろう。

2009年10月26日月曜日

店とはディスプレイである

ブレーズ・サンドラールの詩を引用したジャン・コクトーの文章の堀口大學訳に
「見世びらき」という文字を見たら、辞書をひかずにはいられなかった。

みせ(店/見世)
(デジタル大辞泉)
《「見せ棚」の略から》
1.商品を陳列して売る場所。商店。たな。

やっぱり。

店を「畳む」とか「広げる」とかいうのも、
「棚」というところから来ていそうだ。

頭のなかは、すっかり江戸時代。
サンドラールとはだいぶ遠くなってしまった。

2009年10月25日日曜日

漢字の続き

明朝体の「真実」は、裏返したらやはりちょっと歪むのだった。

多和田さんの本の続きで、今日読み進んだ部分には
「門」 に始まり、 「共」 「未」 「幸」 「薬」 「量」 などを裏返した
ほぼ元通りだがちょっと歪んだ漢字が続々出てきた。ほぼ左右対称な漢字たち。

ぱっと見て、裏返しでも一番違和感がなかったのは、 「囚」。

ところで、対称ではない漢字で
鏡文字になっていることで、より象形文字的に見えたのは、「競」 。
膝が鋭角に曲がっている方が、先を走っているように見える。

2009年10月24日土曜日

「真実」

多和田葉子さんの『ボルドーの義兄』(講談社、2009)を読んでいる。

フラグメント毎に、その断章のエッセンスをあらわす
一文字の漢字が、鏡文字にして書かれている。

その記憶が頭に残っていたからか。

まったく関係ないことをしているときに、ふと
「真実」という漢字が左右対象であることに気づいた。(「はね」や「はらい」は抜きにして)


真実は、裏から見てもまた真実。


本はまだ56ページ。今のところ、左右対称の漢字は出てきていない。

2009年10月23日金曜日

三つの枕

Oreiller, フランス語の「枕」には Oreille 「耳」 が入っている。
仰向けでなく、横に眠るのが一般的だったんだろうか?

Almohada, スペイン語の「枕」は al ではじまるアラビア語起源。
ムスリムがやってくる前のスペインでは、どんな枕を使っていたのか。
アラビアの枕が、革新的にすばらしいもので、名前が残ったんだろうか?

枕。「話の枕」というのは、どういうことかな、と思ったら
「枕木」という場合の「枕」の意味を見て、なるほど。
「長いものを横たえるとき、下に置いてその支えとするもの」(デジタル大辞泉)

2009年10月21日水曜日

悪夢のなかの「猫たちの鋭い鉤爪に引き裂かれてはたいへん…」
というのをスペイン語で書こうとしたら、

鉤爪は garra
引き裂くは desgarrar

引き裂くという動詞のなかに、すでに鉤爪が入っている!
garra garra とたどたどしい文章になってしまうのでやめた。

逆に。
以前スペイン語の歌詞を日本語訳したとき、
「爪で爪弾く」じゃいかんな、と思ったことがあった。
スペイン語の爪弾く puntear には
punto はあっても、爪 uña はないのだった。

こういうずれが、面白い。

 

ものと名前の出会う頃に

公園のお堀を通りかかったとき、向こうから
若いおかあさんと、3さい弱くらいの女の子が歩いてきた。


女の子   「かめ、いるかなあ?」

おかあさん 「え、かめ?」

女の子   「かめって、わかる?」

2009年10月19日月曜日

からだ

「体」の旧漢字はよくできている。

骨格があり、そのまわりに肉がついて、「體」。

スペイン語でも、「生身の」という表現は
"de carne y hueso" (肉と骨の) という。

Soy de carne y hueso. 「私は生身の人間だ」

ヒトがいくらあれこれ考えたり作ったり壊したり売ったり買ったり喋ったり書いたりしても、
垣根をくぐる猫や電線にとまる鳥と同じように、
基本はcarne y huesoでできている。

2009年10月18日日曜日

Intento en otro blog "Literatura para niños, para todos"

En el blog "Literatura para niños, para todos",
Edu y yo comenzamos un intento de colabo-creación.

"Literatura para niños, para todos"のブログで
エドゥと共同の創作実験を始めました。更新は不定期。

2009年10月17日土曜日

立体化

1920年代から40年代にかけて活躍したメキシコ詩人
ハビエル・ビジャウルティアについて、ここ数年のあいだ調べ続け読み続け、

ここ数日、同じ時期の日本の詩人たちのことを知りだしたら
これがとても面白い。

明治に入ってから西洋化の波が押し寄せた日本の場合と、
コルテス以降、スペイン語世界に入り、キリスト教が入り、
そして西洋の伝統が「教養」の基礎となったメキシコの場合と。

20世紀のスペインがヨーロッパの中で文化の中心ではなかったことは、
日本とメキシコを、どこか似た状況に置くことにつながったように思える。

メインストリームからは海を隔てたところにあったことでも、どちらも同じ。


ただし、
「西洋文化」の根の深さでは、まったく違う。言語的にも。
日本文化の規範においては長い間、中国という別の権威があったことも、大きく違う。

 (現在でも、日本では中学高校の「国語」の時間に日本の古典と漢文を読むように
 メキシコでは、ギリシャ・ローマの古典が教えられる。おそらく、他のラテンアメリカ諸国でも)


「伝統」を探すときの仕方も違う。
ただし、どちらの国も難しい。いったいどの時点にルーツを求めるのか。

二度の大戦へのかかわり方、
世界全体において自国をどう位置づけていたか、
どのような戦略を取ったか、ということも違う。

それでも、
メキシコで

近代詩成立の鍵を握る雑誌『コンテンポラーネオス』が出たのが、
1928-1931年。

日本で、近代詩史上重要な雑誌『詩と詩論』が出たのが、
まさにちょうど同じ時期。

まだ「面白そうだ」という予感の段階に過ぎないけれど、
少しずつ、視野が立体的になっていきそう。

2009年10月15日木曜日

五感 + する

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」で有名な、安西冬衛の詩から

「木の椅子に膝を組んで銃口を鼻にする。蒼い脳髄で嗅ぐ硝煙の匂が、私を内部立体の世界へ導いた。」

       (大岡信編、『集成・昭和の詩』、小学館、1995年より)

という一節の「鼻にする」を読んで、硝煙の匂いを嗅いだような気分になった。

目にする。
耳にする。
手にする。
口にする。

「口にする」には、
口の中に入れる意も、言葉を口にのぼらせる意もあることを
改めて意識する。

2009年10月14日水曜日

幸恵さんの新作

画家・門内幸恵さんの作品紹介のページに大幅な更新を発見。

http://yukie-monnai.blogspot.com/

びくり首

ぴきっ という感触、いやな予感。
これも寝違えというのだろうか、起き上がるまさにその瞬間に
情けないほど派手に首の筋を違えた。

ほぼ丸二日間、冗談のように首がまわらなかった。
別の方向を見るためには、
目だけをギョロ と動かすか、体ごと向きを変えるか。


「家庭医学大全」をめくったら「50肩」の項が目に入った。

「(前略)

帯を結んだり、髪を結ったりする動作のときに痛みを感じ

(後略) 」


刊行は昭和61年。当時の40代、50代は和装が主流だった???

2009年10月8日木曜日

秋の実



鳥が来ては、秋の実をついばんでいく。

2009年10月6日火曜日

かりんとう

小学生の女の子ふたりぐみとすれ違った。
元気にしりとりをしている。

「まり」 「り、りす」 「す、す、すずめ」 「めだか」 「かりんとう」

かりんとう。
急にじわりと甘みが広がる。
ことばは不思議だ。


刺激されて、夜にノートを開いてみた。
動詞、形容詞、助詞も使っていいという勝手なルールを決める。

月 きしむ 無人の 野原 …

(中略)

手紙を 送る 留守がちな 泣き虫…

(中略)

手習い 居残り 理屈は 忘れ…

(中略)

目頭 らくらく くらくら 羅針盤

2009年10月5日月曜日

「だが」

小野正嗣さんの小説『線路と川と母のまじわるところ』を読んでいたら
日本語と「外国語」の往来というモチーフがたくさん出てくるものだから
ことばそれ自体が気になってしょうがない。
 
 (不満なのではなく、それも面白く、もちろん作品自体が面白い)


女性の主人公-語り手が「けれど」を使っている部分で
以前、ほかの翻訳された文章を読んで
女性の語り手が「だが」というのが、鋭く、強すぎると感じたことがあったのを思い出した。


だが。 Daga.

スペイン語のDagaは、諸刃の短剣を意味する。

Daga, とフレーズを鋭く分断する感じが、それも至近距離で行う感じが、
なんだか通じている。

2009年10月3日土曜日

「神々の謡」を観た

「神々の謡」を観に行ってきた。
すばらしかった。

主人公の知里幸恵さんの役のほかに、
おばあさん、こども、おくさん、おじさん、フクロウのカムイなど
実にたくさんの登場人物がでてくる。

一人芝居だというのに、
役者の舞華さんは、声色と表情と仕草を巧みに変えてくるくる変身し、
舞台上は大勢の役者でにぎわっているようだった。見事。

アイヌと倭人の問題、差別の問題、宗教と信仰の問題、学問という名の暴力、偽善、
いろいろな難しいテーマと真正面から取り組んでいる。

そのどれに対しても、
安易な価値判断を下さずに
劇中では一応の解決をつけながら
観客それぞれの胸に課題として残してくれるのがいい。

幸恵さんに縁のある地を何度も訪れ、アイヌの文化を教えてもらい、
アイヌの人たちに台本を見てもらうこともしたという。
自分が演じる世界に対して最大の敬意を払っていることに、感銘を受けた。


まだ明日、日曜日も二回公演がある。
  ↓
劇団のページ
http://mukashi-omocha.net/

2009年10月2日金曜日

「神々の謡」、10月1日から4日まで笹塚にて

世の中の人がそれぞれに紡ぐ糸は、どこかでふと交差して
その隠れた道筋に、気づくことがある。


 "アイヌ民族の口伝えの神謡を記録するために
 「アイヌ神謡集」を残し、19歳という若さで命を閉じた
 知里幸恵。その生涯を、劇団「ムカシ玩具」の女優・舞香さんが
 舞台化し、1日から一人芝居で公演する。” 
          (朝日新聞、むさしの版、10月1日朝刊より)


知里幸恵さんのことを知ったのは、
2007年の7月、札幌で、
「アフンルパル通信」の刊行を記念した集まりにお邪魔したとき。

編者である吉成さんのご友人の千恵さんが、
その日に手にしたばかりだった、知里幸恵さんの生涯を綴った本を
会ったばかりの私にプレゼントしてくれた。

先日、「津田信吾さんへの絵葉書」の集まりで、千恵さんにばったり再会した。
旅行中だった彼女は、旅程を変更して、そこに駆けつけていた。


劇を見に行けるか。行きたい。



劇団のページ
http://mukashi-omocha.net/

劇場のページ。新宿から一駅、笹塚駅すぐにある。
http://www.kyowakoku.net/index.htm