1853年、ペリーが浦賀に来航。
でも、なぜ浦賀?
そんなこと考えたこともなかった。
昨年12月6日にちらりと紹介した
エメェ・アンベールの『絵で見る幕末日本』(講談社学術文庫)
の続きを久しぶりに読んでいたら、あっと思った。
「日本に来てみると、太平洋沿岸における海上貿易が欠如していることを痛感する。江戸湾に若干の帆船が航行しているが、かれらは決して外海には出ないで、浦賀あたりで荷物を下ろし、馬で、陸路、江戸に運んでいる。」
「われわれの軍艦が江戸に向かうことは、岸辺の漁船を除いて、ほかの船舶の注意を引かないばかりでなく、江戸の港が浅いため、市街から二マイルまたは三マイルも離れた全く人影のない所に投錨しなければならない。このような大きな距離では、軍艦の示威による効果も全くゼロになることは明白である。軍艦がいくら号砲を放っても、埠頭の岸辺を固めている砲台は返答もしないのである。江戸における公式の上陸は高輪地区のゴトバン(埠頭)だけで行なわれたが、ここには艀だけしか入ることができなかった。」
(ともに第14章「ヨーロッパの使節代表」より)
ペリーがもしも上陸場所を重視して艀で上陸していたら、
歴史は違ったかもしれない。