先日、コントラバス奏者の齋藤徹さんの「徹の部屋」へ行った。
今回のゲストは、詩人の野村喜和夫さん。
このお二人はメキシコ市で昨年の10月行われた詩の催しに参加され、
当時現地に留学中だった私は縁あって通訳のようなお手伝いをし、
面白い経験をさせていただいたのだった。
今回は、帰国後初めて、
お二人が組んだパフォーマンスが見られるチャンスだった。
思ったこと、その1.
今回改めて気づいたのは、
野村さんの「朗読」が、詩を黙読する際のプロセスに通じるのではないかということ。
ひとつの作品を読むにあたって、冒頭から末尾まで一度読んで終わりということはない。
一度通して読み終わった後に、気になる詩句、フラグメントが何度となく繰り返されたり、
あるいは、はじめから進み、戻り、繰り返し、進み、戻り、という動きをとったり、
そうして全体像が結ばれる。
ポール・ヴァレリーが、
散文は歩行のようなものであり、詩は舞踏のようなものであると書いていたが、
まさに、野村さんの詩の朗読を聞くことは、舞踏を見ることと似ていた。
その2.
詩のことばについて、私の理解が間違っていなければ、
その本質は意味をはぎとることにある、と野村さんはおっしゃっていた。
規定されることを拒む、ということ。
ことばに挑み、ことばで遊び、ことばを解体することは、ことばを破壊することでは、決してない。
そこには、詩人のことばに対する敬意が、そして「ことば」の詩人への信頼のようなものが感じられた。
斎藤さんの演奏も、
え、そんなこともしていいの?と驚かされ、ハラハラさせられ、楽しまされるが、
そこには、コントラバスとのあつい信頼関係があるように思えた。
端正なバッハを弾かれても、
どこの国のものかわからない鳴りものをジャラジャラ弦にはめられても、
巫女のように扱われても、
倍音を強調して鳴らされても、録音した音と共演させられても、
駒を叩かれリズム楽器と化しても、本体そっちのけで弓だけがヒュウっと鳴らされても、
奏者がいきなり歌声で共演し始めても、
つやつやのコントラバスは、動じずに立っていた。
信頼の有無を客観的に確かめることのできないもの(この場合は、ことば・楽器)との間に
相互の信頼関係を結ぶのは、すごいことだ。
たとえば、すごいこと、なんていう表現を使っているようでは、
ことばの信頼は得ることはできない。
やれやれ。
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*このイベントについて、
齋藤徹さんのページに、詳しいリポートがあります。
Blogから、12月26日の記事へ。
メキシコでのことも書いてくださいました。ありがとうございます。
http://web.mac.com/travessia115/tetsu/Tetsu_Saitoh_Travessia_Home_Page.html