2009年12月29日火曜日

コントラバスの宵

先日、コントラバス奏者の齋藤徹さんの「徹の部屋」へ行った。
今回のゲストは、詩人の野村喜和夫さん。

このお二人はメキシコ市で昨年の10月行われた詩の催しに参加され、
当時現地に留学中だった私は縁あって通訳のようなお手伝いをし、
面白い経験をさせていただいたのだった。

今回は、帰国後初めて、
お二人が組んだパフォーマンスが見られるチャンスだった。



思ったこと、その1.
今回改めて気づいたのは、
野村さんの「朗読」が、詩を黙読する際のプロセスに通じるのではないかということ。

ひとつの作品を読むにあたって、冒頭から末尾まで一度読んで終わりということはない。

一度通して読み終わった後に、気になる詩句、フラグメントが何度となく繰り返されたり、
あるいは、はじめから進み、戻り、繰り返し、進み、戻り、という動きをとったり、
そうして全体像が結ばれる。

ポール・ヴァレリーが、
散文は歩行のようなものであり、詩は舞踏のようなものであると書いていたが、
まさに、野村さんの詩の朗読を聞くことは、舞踏を見ることと似ていた。


その2.

詩のことばについて、私の理解が間違っていなければ、
その本質は意味をはぎとることにある、と野村さんはおっしゃっていた。
規定されることを拒む、ということ。

ことばに挑み、ことばで遊び、ことばを解体することは、ことばを破壊することでは、決してない。
そこには、詩人のことばに対する敬意が、そして「ことば」の詩人への信頼のようなものが感じられた。

斎藤さんの演奏も、
え、そんなこともしていいの?と驚かされ、ハラハラさせられ、楽しまされるが、
そこには、コントラバスとのあつい信頼関係があるように思えた。

端正なバッハを弾かれても、
どこの国のものかわからない鳴りものをジャラジャラ弦にはめられても、
巫女のように扱われても、
倍音を強調して鳴らされても、録音した音と共演させられても、
駒を叩かれリズム楽器と化しても、本体そっちのけで弓だけがヒュウっと鳴らされても、
奏者がいきなり歌声で共演し始めても、
つやつやのコントラバスは、動じずに立っていた。

信頼の有無を
客観的に確かめることのできないもの(この場合は、ことば・楽器)との間に
相互の信頼関係を結ぶのは、すごいことだ。

たとえば、すごいこと、なんていう表現を使っているようでは、
ことばの信頼は得ることはできない。
やれやれ。


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*このイベントについて、
齋藤徹さんのページに、詳しいリポートがあります。
Blogから、12月26日の記事へ。
メキシコでのことも書いてくださいました。ありがとうございます。

http://web.mac.com/travessia115/tetsu/Tetsu_Saitoh_Travessia_Home_Page.html

2009年12月24日木曜日

レモンのつぼみ

部屋にある植木鉢のレモンに、白い小さなつぼみを見つけた。

12月につぼみをつけるのはレモンとしてどうなのか
という問題はひとまず置いておいて、
冬至を過ぎて、さあ、これから一日ごとに春に向かうんだ という気分にはぴったり。

初雪が降るころに、(降るならば)
シャープでしっとりしたレモンの花が咲いたらおもしろい。

2009年12月22日火曜日

つりあい

Equilibrio というスペイン語が、なんだか好きだ。
エキリブリオ。 「エル」と「アール」の配置も、全体の響きもいい。

つりあい、均整、平静、という意味の、このことばが気になり始めたのは、
きっと Equidistante ということばを知ったころだったと思う。

Equidistante 等距離の。 
equi というのが「均等であること」を表しdistancia が距離。

では、Equilibrioは?
Libraと言えば、「天秤座」のこと。
天秤がつりあって重さが同じなのが Equilibrio だということなのだろう。

そういえば英語の「バランス」には「equi」の要素は含まれていないのか、
と不思議に思って調べてみたら、
「バランス」という語も、起源はラテン語だった。

balance. (ジーニアス英和大辞典)
初13c; 後期ラテン語 bilanx (2つの天秤皿をもった)

皿が2つというだけで、天秤が釣り合ったという状態を表してしまうのも面白いが
やっぱり equi が入っている Equilibrio に惹かれる。

2009年12月20日日曜日

オラシオ・カステジャーノス・モヤ 『崩壊』


オラシオ・カステジャーノス・モヤ氏の小説『崩壊』
(寺尾隆吉訳、現代企画室、2009年)の出版記念会があった。
(12月16日、セルバンテス文化センターにて)

日本語版の帯は、この小説を次の三行で紹介している。

 「軍事政権、ゲリラ、クーデター、内戦、隣国同士のサッカー戦争―
 人びとを翻弄する中米現代史を背景に、
 架空の名門一族が繰り広げる愛憎のドラマの行方は?」

この作品は実際に起きた出来事を下敷きにしている。
特に第二部にあたる書簡体の部分を書くにあたっては、
多くの歴史的資料に当たり、外交文書のアーカイブをも参照したという。

しかし、16日に作者も語っていたように、
中米の歴史を知らなければ読めないような本では決してない。
作品を読みながら直接的・間接的に出来事の姿が見えるように仕組まれている。

しかも、主人公は歴史的な出来事ではなく、そこに生きる(架空の)人物たち。
彼らの抱える問題 (とくに作者が挙げていたのは「家族」、「世代間の対立」など)は、
別の時代、異なる地域に暮らす私たちにとっても他人事ではないものだ。


『崩壊』は、読み手をぐいぐい引き込むという意味で「読みやすい」本だと言える。
当たり前だが、「**でもわかる」式の読みやすさとはまったく違う。
読み手の頭脳と感性を稼動させ、次のページを読まずにはいられなくさせるようなもの。

ジャーナリストとしても活躍する作者の、
好奇心、調査力、人間観察の鋭さ、批判精神、ユーモア、語りの巧みさ、
さまざまな持ち味が存分に発揮された一冊だ。


ちなみにスペイン語版と日本語版を並べてみたら、
左開きと右開きであるだけでなく、
木の根もどこか連続しているようで、きれいな対になった。

2009年12月15日火曜日

隠された主張

その本を読んだわけでもないのに、忘れられない題名がある。

『橋はなぜ美しいか』

図書館でたまたま通りかかった書架に見かけた背表紙。

この問いは、「橋は美しい」ということを前提としている。
疑いを向ける余地など、ない。

なんだか整然とした強さを感じ、どきっとした。

2009年12月14日月曜日

びっくりして飛び出る

いつの頃からか、見るたびに漫画的な絵を思い浮かべてしまう形容詞がある。

西和辞書で引けば、

exorbitante (形)
[要求・価格などが]法外な、途方もない」

と出てくる。(白水社現代スペイン語辞典。以下同じ) これは別に面白くもない。

しかし分解すれば、
ex-orbitante

つまり、órbitaから飛び出るような。

órbita (女性名詞) は、
1. (天文)軌道
2. [活動・影響などの]範囲
3. (解剖)眼窩
4. (物理)電子軌道


1番の意味から類推すれば、órbitaを「常軌を逸した」ということになるだろう。

が、私の頭に浮かぶイメージは、3番。
ガーン何だそれは! とびっくりして、目が飛び出ている絵だ。

2009年12月13日日曜日

ありがたき

何かの拍子に、「ありがたき幸せ」というフレーズを
羽織袴に丁髷の映像つきで思い出した。
(大岡裁きの番組だろうか。)

ふと考えれば、この場合の「あり難き」には、
「ありがとう」という際には意識しない、字義通りの意味が残っている。


各言語の「ありがとう」という表現が、
もとはどんな意味の言葉からできているのか調べたらおもしろそうだ。


頭に浮かぶ範囲では、
gracias, merci は、キリスト教の神の恩寵という意味が関わっていそうだし
 (↑別れの挨拶の Adios, Adieu のように)
obrigado は恩義を受ける、借りができたという感じがありそうだ。
Thank you や 謝謝 は、直球だと思う。

2009年12月10日木曜日

海を渡る蝶

「春」
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

という安西冬衛の詩があるが、雑誌『亞』に掲載された版では少し違う。


てふてふが一匹間宮海峡を渡つて行つた  軍艦北門ノ砲塔ニテ


韃靼海峡(タタール海峡)=間宮海峡。
サハリン(樺太)とユーラシア大陸の間の海峡。
呼び名が違うだけで、場所は同じだ。

最終的には、「韃靼海峡を渡つて行つた」に落ち着くのだが、
「間宮海峡」と「韃靼海峡」では、イメージの強烈さが違う。

地名の由来から、間宮林蔵と韃靼人のどちらが連想されるか、ということもあろうし
そもそも、音のインパクトがだいぶ違う。

「間宮海峡」の版では、
「軍艦北門ノ砲塔ニテ」という添え書きによって
蝶の軽く脆い飛翔と対照的な、砲弾の重々しく凶暴な軌跡が感じられるが、
最終版では、「てふてふ」と「韃靼」だけで、それがすでに含まれているようだ。


感嘆ついでに、蝶を、大航海時代へ移してみたくなった。
こういうのはどうだろう。

「16世紀」       安西冬衛に
てふてふが、一匹、また一匹と、マゼラン海峡を渡って行った。


2009年12月7日月曜日

準備万端

きちんと片付いた感じの一戸建てから、
グレーのトイプードルが嬉しそうに出てきた。

散歩用のリードの手元に現れたのは、80歳近いように見えるおじいさん。
はずむ足取りのトイプードルと歩くのは大丈夫かな、と一瞬おもう。

犬にせかされるようにして、おじいさんの全貌が現れた。

リードを握るのと反対の手には、犬トイレ用のビニール袋がかぶさっていた。
準備万端だ。

2009年12月6日日曜日

シンコペーション

Síncopa. (小学館西和中辞典)
1.(音)シンコペーション
2.(文法)語中音消失。 natividad →navidad, Barcelona→Barna.

シンコペーション、たとえば、
タタタタタタタタ の代わりに、 タタータータータ。

日本語でことばが簡略化されるとき、
途中の音が抜けて頭とおしりが残るというパターンは、あまりないんじゃないだろうか?

頭を残すのはともかくとして、語のおしりはあまり重視されないように思う。
天ぷら+どんぶり なら、二語の頭をとって、天丼。「天ぶり」にはならない。

あれこれ考え、ようやく思い当たったのが「すし」だった。
しかし、
「すし」 =「酢飯」の頭とおしりをとったものではないか、
という仮説は、辞書を引いた途端に脆くも破れたのだった。


「すし」(デジタル大辞泉)
形容詞「酸し」の終止形から。


トランペットの続き

軍隊ラッパについて電車に乗りながらぼんやり考えていたら
あるメロディーに思い至った。

正露丸というのは、日露戦争のときに開発された薬で
「制露丸」だったか、「征露丸」だったか、というのが元の字だと聞いたことがある。
ラッパのマーク、というのは、軍隊ラッパなんだろうか。

2009年12月5日土曜日

袖振り合うも

野菜の無人販売所で、大根を買った。
野球選手のすねぐらい太くてずっしり。
もちろん葉つきで、紫のひもでまとめてある。

フランス人が香ばしいバゲットを買って帰るときのようにして、
白く冷たくずっしり重い大根を小脇に抱えてずんずん歩いていたら、
むこうから歩いてきたおばあさんが、笑顔で言った。

まあ、立派な大根ねえ。おいしいでしょうねえ。


いつかの夏、
暑さのひどい午後に、渋谷から乗った電車で
隣に座ったおばあさんに、声をかけられたことがあった。

暑いですねえ。やっぱり夏は、木綿よね。

そのとき私は、白い木綿のシャツブラウスを着ていた。



東京では「袖振り合う」人と会話が生まれることは少ないけれど、
時にはこういうこともある
いい意味での「隙」を持っていたい。

2009年12月3日木曜日

「おみ」について

「おみおつけ」ということばの初めの三文字
「お」「み」「お」は、どれも丁寧の「お」だ、
と何処かで聞いたことがあった。

が、なぜ味噌汁をそんなに丁寧に言う必要があるのか、
ふと不思議に思えた。

いつもの通り、辞書を引いてみた。
衝撃の事実。

「御味御汁」(明鏡国語辞典)
[名] 味噌汁の丁寧語。「おみ」は「味噌」の女房詞(ことば)。

「御味御汁」(デジタル大辞泉)
「おみ」は味噌の意の、「おつけ」は吸い物の汁の意の女性語
味噌汁をいう丁寧語。

「おみ」が味噌とは知らなかった。
女房詞ということは、平安時代から続くことばなんだろうか。

2009年12月1日火曜日

戦場のジャズトランペット

先日、ロマン・ポランスキー監督の作品を見た。

1959年の短編作品のなかに戦場の場面があり、
(このほかには、『戦場のピアニスト』まで、戦争を作品に取り上げることはなかったそうだ)
そこで、トランペットの音が聞こえてきた。

勇ましい軍隊ラッパかと思ったら、それは次第に柔らかな音色と旋律に変わった。
戦場に響き渡るジャズトランペット。

はっとする一場面だった。