2009年11月29日日曜日

ぎゅうぎゅう

何を読んでいたときだったか、「犇く」 という字が出てきた。

この字を見たのは(おそらく)初めてだったけれど、
牛が三頭もあつまっているということは、、、

電子辞書の手書き入力機能を使って確かめると、
やっぱり合っていた。
ひしめく、だ。

ぎゅうぎゅうにひしめきあっている様子。うまくできている。


ん?
犇。ぎゅうぎゅうぎゅう だ。 

そんな遊び心が混ざっているのかどうかはわからないが、とにかくよくできた字だ。

2009年11月27日金曜日

歌う、踊る(Tha band dancer vol.1)

先日、ダンサー西林素子の出演する舞台
「トランプ」(The band dancer vol.1)を見てきた。

生のバンドと生身のダンサーが共演し、
ポーカーや大貧民などのトランプゲーム、ジョーカーをモチーフに
一曲一曲、違った味わいのショウが繰り広げられる。

ヴォーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボード、サックス、トランペット…

バンドの楽器それぞれの持ち味が違い、そして担う役割も異なるうように、

ダンサーも一人ひとり、ちがった魅力を持っている。
そしてそれが見事に引き出されていた。

西林素子というひとは、

格好良さと華やかさとチャーミングさを兼ね備え、それに一本芯の通った
稀有なひとで
ダンスにもそのすべてがあらわれている。


こんな贅沢な舞台を、またいつか見たい。



もうひとつ。

この舞台の音楽をプロデュースしたヴォーカルとサックスの戎谷俊太氏の歌は、

ことばがとても素直にメロディーに乗っているのか、まったく自然に頭(か心か?)に入ってきて、

不思議な感覚を覚えた。

ふと、開演前に読んだパンフレットに
「バークリー音楽院の卒業実技試験で、サックスを吹かずに日本語で歌い、卒業を一度見逃す」
とあったことを思い出した。
きっと彼の表現の根本は、自分のことばで・自分の声で、歌うことなのだろう。

2009年11月25日水曜日

光の世界へようこそ

身近に、新しい命が生まれた!

とても好きなスペイン語の表現に dar a luz  というのがある。

dar は「与える」、luz は「光」。
dar luz は、「明るくする」。
dar a luz は、「出産する」。

たとえば「双子を出産する」だったら、dar a luz a gemelos となる。
赤ちゃんを光のもとにさしだす、ということなんだろうか。

いまごろ、文字通り「うまれて初めて」見ているであろう今日の陽射しは、
くっきりとして、とてもきれいだ。

2009年11月23日月曜日

ちゃぼ

堀江敏幸さんの『回送電車』(中央公論社)が面白い。

「さびしさについて」という、ちゃぼ(矮鶏)をめぐる一文にため息をつく。

ちゃぼのたまごを食べた経験は私にはないが、
「バンタム級」の「バンタム」がちゃぼの意味だと聞いたことを出発点に
辞書をハシゴするくだりには、深く共感。

野暮は承知の上で、辞書遍歴の成果をかいつまんで書いてしまうと、

「バンタム」を引く
→「ジャワ島のバンテン(旧称バンタム)地方原産の鶏の品種のひとつ」で、「ちゃぼに似たもの」

「ちゃぼ」を引く
→「矮鶏」、英語名「ジャパニーズ・バンタム」。
「江戸時代に入ってきた小形の鶏を日本人が改良したもの」

「ちゃぼ」を広辞苑第四版で引く
→その名は、原産地の占城(チャンパ)に由来。愛玩用の「鶏の一品種」。
「小形で、尾羽が直立し、脚が非常に短く、両翼が地に接するほど低いことなどが特徴」 ……。


この後、
ちゃぼが主人公の童話、ご自身のひよこ育て経験、そしてちゃぼを詠んだ短歌をめぐって
ちゃぼづくしの洒脱な文章はつづく。


ああ、こんな風に文章が書けたら……と思いながら読んだ(これがため息の元)。

が、一方では、メキシコ弁のしみついた脳が「ちゃぼだって、ちゃぼ」と囁いている。


Chavo, chava とは、それぞれ、年若い男、女のこと。
辞書にも 《俗》と書いてあるが、正式な場では使わない砕けたことば。

Es mi chava. と言えば、 「こいつがおれの彼女だよ」という感じか。
Chavo, chavitoと言ったら、「若造」みたいな意味にもなる。

そうだ、「若造」の代わりに
矮鶏と堀江さんの文章に因んで、「ひよっこ」というのはどうだろうか。

2009年11月21日土曜日

フルタ・アキ


色も形も違いはするが、
おんなじ秋に実ったふたり。
並ぶとちょうどいいでしょう。


Fruta Aki  或いは
Kudamono Otoño.

2009年11月20日金曜日

エンコントロン

何かを和西辞書で引いたときに、encontrón という言葉が目に入った。
意味は、「衝突、激突」(小学館和西中辞典)。

スペイン語では、
-
ón(a) という接尾辞は(規模やサイズが大きい)という意味を加える。
-ito(a) (小さい、かわいい などの意味を加える)の逆。

たとえば、salaは部屋、 salónは大広間。


encontrónの元になった名詞は、encuentro(第一義は「出会うこと」)だ。

   (形が違うのは、 encontrar(出会う)は、活用するときに
   o の部分にアクセントが来る場合に ue と音の変化をする動詞だから


つまり、出会い頭にゴツン、ということなんだろう。


出会い頭に… というので、蟻の童謡を思い出した。
ありさんとありさんとごっつんこ、という歌。

夢がないけれど、
出会い頭にぶつかってしまったわけではなくて
ほんとうは情報交換しているんだなあと気がついた。

2009年11月19日木曜日

傾いた空


昨日の夕方、空が斜めに傾いて見えた。

こどもの頃にならった、地球の公転の模式図を思い出す。

地軸は傾いていて、

だから太陽との位置関係が変わることで季節変化が起きる、という図。

それから、これもまたこどものころに、
ブランコを漕ぎながら空を眺めたら、空がまあるく見えたこと。

2009年11月18日水曜日

時の木


世の中にも、
ある季節、ある時刻の日当たり加減でとびぬけて輝くように、
ぱっと
目を引く人がいる。

2009年11月17日火曜日

手のひらを太陽に



日の光を透かして見ると木の葉がきれいなのは、
いのちの流れが見えるからか。

2009年11月13日金曜日

尾ひれ

少し前、大学の食堂でおかしな表現をこぼれ聞いた。
「そしたらさ、話に尾ひれにハヒレがついて…」

たった今、「はひれ」で検索してみたら、
 "「はひれ」とは何でしょうか" という質問がひっかかった。
どうやら、あの男子学生の作り出したことばではなかったらしい。

しかし「ハヒレ」なんていつ出てきたものなのか。

調べてみたら、
「尾ひれ」という言い方についても、勘違いしていた。
尾ひれというのは魚の「尾のひれ」のことだと思っていたが、「尾とひれ」なのだった。

「尾ひれ」 (デジタル大辞泉)
1.魚の尾とひれ。 2.本体以外につけ加わった余分なもの。

話に尾がつき、ひれがつき、
自由に海を泳ぎまわる姿を想像すると、なんだか楽しい。


そういえば、だいぶ前に読んだ翻訳関係の雑誌で、
各分野で活躍している翻訳者たちに 「あなたにとって、翻訳とは?」と問うコーナーがあった。
スペイン語文学の翻訳者である杉山晃先生が、だいたい次のように答えていたのを思い出す。

目の前で泳いでいる金魚を、別の金魚鉢に移しかえて、できる限り生き生きと泳がせること。

2009年11月11日水曜日

牛とワクチン

vaca 牛や hombre hongo キノコ人間の出てくる変な詩がある。
それを解説した文章を読んでいて
ふと、記憶のなかのかけらがぴぴっとつながった。

スペイン語では、Vacaは牛。Vacunaはワクチン。
ワクチンの誕生は、牛と関係があった、というエピソードを読んだことがある。

スペイン語辞書で引けば、
vacuno, vacuna という形容詞の第一義は、「牛に関係する」。

フランス語で牛は Vache だから、ラテン語系なんだろう。

種痘の発見者ジェンナー(イギリス人)について見れば

「牛痘にかかった農婦は痘瘡(天然痘)にはかからないという経験に基づいて
研究を進め、[中略]8歳の男児の腕に牛痘にかかった乳搾りの女の子の
おできの膿を摂取した。

その後[…]この少年に真性天然痘瘡毒を摂取したが
発病はなく、牛痘で痘瘡が予防できることを証明した。

こうして多くの感染症の予防接種の出発点となった種痘法が生れた」
(ブリタニカ国際大百科事典)

…8歳の少年に何かあったら一体どうするつもりだったのだろう、
という気はするけれど。

2009年11月10日火曜日

空の山


ある夕方、山なき空に、ひととき山が現れた。

2009年11月8日日曜日

ゴソ・コン・ゴソ

Gozar con... = ...を楽しむ、味わう。(スペイン語)
一人称単数の活用では、gozo con... ゴソ コン... となる。

Gozo con 語素。


tele-scopio 望遠鏡 (telescope)
micro-scopio 顕微鏡 (microscope)

これは、日本語でも分解できてわかりやすい。
「遠くをのぞむ」 / 「微かなものをあきらかにする」 
「かがみ」=人の姿やものの形を映し見る道具 (デジタル大辞泉)


telé-fono 電話 (telephone)
micró-fono マイク (microphone)

このふたつを望遠鏡方式に日本語にしてみると
「遠話器」、
微音拡大器?採取器? 難しい。 だからカタカナなんだろうか。

拡声器というと、megá-fono メガホンになってしまう。

さて。
tele-patía  テレパシーは、遠くの人に気持ちを伝える、気持ちが伝わることで
sim-patía  シンパシーは、同様な感情を持つこと、共感すること。

場の空気を読め、とかいうのは、
微細な感情の動きを拾う、 micro-patía とでもなるだろうか。

2009年11月7日土曜日

ことばとイメージ

イメージを呼び起こす力がやたらと強いことばがある。
「梅干し」。
うめぼし、と頭の中で発音しただけで、口の中が急に潤う。今もなった。

こどものころ、間違ったイメージ連鎖が起きていたことばがある。
給食の献立表にひらがなで書かれていた「ぶたじる」。
緑、黄色、紺の土星みたいな旗を思い浮かべていた。

久しぶりに目にして、
自分に起こる反応が鮮烈になっていたことばがある。
「シエラネバダ山脈」。

電車で読んでいた本に出てきた「シエラネバダ」の文字を見たら
眼前に わっ と雄大な白い山並みが広がり、清清しい空気が肺に届くよう。

Sierra はスペイン語で、「山脈」
Nevada は、「雪で覆われた」、「万年雪の」。

2009年11月5日木曜日

カーキ

「カーキ色」は、スペイン語でも caqui 。綴りは違うが響きは同じ。
一体何語からきてるのか?と思って電子辞書の一括検索で引いてみたら。

大辞泉によれば
「khaki は土ぼこりの意味で、もとはウルドゥー語」

明鏡国語辞典によれば、
「khakiはもともとヒンディー語で、土ぼこりの意」


だいたい地球のどのあたりから来たかはわかった。
はて、ウルドゥー語とヒンディー語の関係はどうだったか?

ブリタニカ国際大百科事典を見る。

ウルドゥー語が話されている地域は「インドのドアブ地方とその近隣、ならびにパキスタン」。
パキスタンでは公用語にも定められている。

「西ヒンディー語の一種として分類され、系統的にはインドの公用語ヒンディー語と近い」

とても近そうだ。しかし、

「ヒンディー語がサンスクリット語に語彙の多くを負うのに対し、
ウルドゥー語はペルシア語から多くの語を借用している。アラビア文字で書かれる。」

こうなると、ヒンディー語かウルドゥー語かで、だいぶ違う感じがする。

ところで「カーキ」が世界的な市民権を得たのは、場所から考えて、大英帝国の時代のことだろうか。
(カムフラージュ という言葉は、第一次世界大戦のころに広まったらしい)

兵隊の服やヘルメットを連想させるになる前の「カーキ」 つちぼこり という語は
どんなイメージを含んでいたのか、気になる。
しかも、土ぼこりが「茶色」ではなく、緑がかった色だというところも、気になる。

2009年11月4日水曜日

書き間違えるのは

手書きでノートをとっていても、おかしな変換ミスをすることがある。
スペースキーで漢字にするわけでもないのに。

「解毒剤」 という比喩が出てきたときに
わたしの手が書き留めたのは、「解読剤」。

解読と書いて 「げどく」 と読ませる力技をやってのけた。

そんなものがあったらいいなあ、という願望のあらわれなのだろうか。

2009年11月3日火曜日

ことばが気になる一日

国技館を地図で見て、
ふと「ああ、これは相撲館」という意味だな、と思った。
たとえば「雉の保護会」(あるかどうかは調べていない)を「国鳥保護会」というようなものか。

動物園には、動物がいる。
水族館にいるのは、水族?

「馬鹿につける薬はない」というけれど、もしもあれば、それは塗るタイプなんだろうか。

2009年11月2日月曜日

死者を思う日

11月2日は死者の日。

去年はメキシコで、花と家族で賑わうお墓に同伴したのだった。
お墓を囲んでピクニックをしている家族もあった。
穏やかに賑やかな、暖かいお墓参り風景だった。

その前の年の9月にはテネリフェ島で、
垂直に並んだ、色とりどりの花できれいに飾られた墓石の数々を見た。
特に何かのお祭りがあったのかどうかは、わからなかった。

現地に生まれ育ったアドは、
「死」はできれば近づきたくないもので、
墓地に足を踏み入れたことすらほとんどないと言っていた。

確かに、「死」には、できれば近づきたくない。
でも、「死」と「死者」は違う。

「死を思え」ということばがあるが、

漠然とした「死」ではなく、
この世に生きて、その生を終えた人たちのことを、思い出す夜にしよう。



Tenerife, 2007, foto por Yukie Monnai