2007年12月31日月曜日
大晦日
大掃除という習慣、なんだか好きだ。
すっきりぴしっとさせて、新しく始め直す。
普段気になりながら見て見ぬふりをしてきたことも、
えいやと片付けるきっかけにもなる。
しかも、こんな機会でもなければ
いつも暮らしている空間の隅々をじっくり見ることもあまりない。
風呂場のドアを拭きながら、ここの取っ手はこんなだったんだなぁと
改めて見入ってしまった。
ほかにも新鮮な体験があった。
昨日、紙類をバッサバッサ処分しながら
以前人からもらったCDを初めてかけてみた。
「音の風景:ナワトル語の一日」という、
日の出、朝食、畑仕事、市場、雨が降ってくる…などのシーンを
音楽と効果音に乗せて、ナワトル語の台詞で聞かせるもの。
99%わからないのだが、地名として残っている言葉を時々耳が拾った。
休憩中に、付録の絵解きナワトル語を広げてみたら
「Coyotl」 が目に入った。
コヨーテ!
太陽はTonalli.
月はMetztli.
火はTletl.
雨はAtl.
2007年12月29日土曜日
フランス(10)モンペリエ
年が明ける前に、秋の旅ノート(フランス編)の最後を。
マルセイユから西に百キロほどのところにあるモンペリエは、
暖かく、そして学生の町ということもあってか、ゆったりしていた。
お昼どきの公園は幅広い世代の人たちで賑わっていて、
ベンチに三人、さらに向き合うように地べたに4,5人という
大人数でサンドイッチをかじっている高校生もいた。
この町で、チャーミングな笑顔の女性に会った。
L'Occitaneの店員さん。
飛行機に乗るのでと私が言うと、ビンが割れないようしっかり包んでくれた。
ソレーヌがふと南フランスのアクセントを話題にすると、
「そう、ここの人たちはかなり訛ってますよね。」
「え、あなたも南フランスのアクセントだけど?
どこかほかの町から来たの?」
「いやだ、ここの訛りきらいなのに。なんて、大きな声じゃ言えないけどね」
カリブ海のアンティル諸島出身という彼女は、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「故郷のアクセントを持っていたいのに、どうしても変わってしまうみたい。
3歳になる私の息子はもっとひどいの。
保育園の先生が、南フランス訛りで話すでしょう。
だから、息子が話すのを聞くと、自分の子だって信じられないほどなの!」
そう言いながら、その人はきらきらと笑った。
きっと、里帰りしたときにも
自分と息子さんの南フランスの訛りのことを
ふるさとの家族と一緒に笑いあうんだろう。
2007年12月27日木曜日
hace dos años
2007年12月26日水曜日
手袋
「東京の人は寒くなっても手袋をしないよね」と言われた。
道ゆく人の手もとを観察しながら歩いてみたら、
確かに素手の人が多い。
バイクに乗っている人たちはさすがに皆手袋をしていたけれど、
自転車でも素手の人が多いのにはびっくり。
「手袋」という日本語は、なんだかそのままの名前だなぁと思い
ちらりとスペイン語のguante(手袋)を辞書で引いてみたら、
aguantar (我慢する、耐える、こらえる)の関連語と出てきた。
(篭手で)握り締めるというところからきているらしい。
同じ物の名前でも、その語の周りにある世界はだいぶ違うものだ。
ぐっと手を握り締めて耐えていないで、素直に手袋をはめたら、
体の感じる冷たさがだいぶ和らいだ。
2007年12月25日火曜日
Oscar Peterson追悼
一瞬にして手元から耳に注意が移った。
トロント郊外の自宅で、現地時間の12月23日に亡くなったとのこと。
一曲だけラジオでもかかったけれど
軽やかで華やかで洒脱な彼の演奏をもっと聞きたくて、
大学のサークル時代の後輩にもらったCD
"Oscar Peterson plays My Fair Lady" をかけている。
58年の録音だから、33歳のときの演奏だ。
2004年、最後の来日公演の際には
上原ひろみとの共演もあったらしい。
あちこちに刻まれて残っている、
いろいろな時代のオスカー・ピーターソンの演奏をもっと聞いてみたい。
2007年12月23日日曜日
2007年12月21日金曜日
Porto Alegre- Tóquio
日本を訪れていたブラジルの作家
Marcelo Carneiro da Cunha氏に会った。
ビール片手にたくさんの話を聞かせてくれたが
中でも新鮮な驚きだったのが次の話。
外国に行くと、よく訊かれる質問が
「**系ブラジル人で有名な作家はいますか?」
そんなとき、自分はどうにも答えられない。
だって、ブラジルでは「**系」という起源について
例えばアメリカ合衆国のように、気にすることはほとんどない。
どの作家も、ブラジル人作家、ただそれだけなんだから。
君だって、ブラジルに行って、ポルトガル語をちょっと話したら
もう「ブラジル人」だと思われるよ。
彼が拠点としている町のひとつは、
ブエノス・アイレスにも、サン・パウロにも近い
ちょうど二つの文化の交差する点にある町、ポルト・アレグレ。
話を聞けば聞くほど行ってみたくなる。
メールを書いたら、
地球のちょうど向こう側から十分足らずで返事が来て、
terra というネット上の新聞のコラムに日本に行ったときのことを書いたよ
と教えてくれた。
スペイン語の知識と、ポルトガル語の初歩知識を頼りに
読んでみたら、漢文の読み下し文を読んだときの感覚に似ていた。
TERRA, 12月14日のコラム
2007年12月19日水曜日
バスを止めたまま
ウアパンゴ・フェスティバルの最終日、
まだ賑わう会場をあとに、昼過ぎから帰途についた。
途中で道をそれてのんびり道草、川沿いを散歩したり、川に飛び込んだり。
夜には帰り着く予定が、夕飯の時間になってもトルーカはまだまだ遠く、
バスは一軒の明るい料理屋の脇で止まった。
わいわいと店に入って魚料理をゆっくり味わい、
さあそろそろ行こうかとぞろぞろ動き出したら
先にバスに戻った人たちが、大音量で陽気な音楽をかけた。
「今日はイバンの誕生日なの」と黒髪のアリシアがそっと教えてくれる。
車通りの少ない夜の道路は、すっかりダンスパーティー。
軽快にステップを踏みながら、イバンの前にはいつの間にか行列ができ、
自分の番がめぐってくるとイバンにabrazo(ぎゅっと抱擁)して
「おめでとう!」
(2005年11月)
2007年12月13日木曜日
音楽に体を動かせ
ウアパンゴ・フェスティバル回想の続きを。
フェスティバルは屋内ステージと野外ステージの二本立てで、
「ウアステカHuasteca」と呼ばれる地方の各地から集まったダンス団が
独自の衣装に身を包んでそれぞれの地方に伝わる踊りを披露し、
地元のこどもたちも晴れがましい顔つきで踊っていた。
小学一年生くらいの小さな子でも男女のペアで踊る。
演目の合間には、すっかり踊りたくなった小さな子が
お母さんにステージの端に載せてもらい、ステップを踏んでいた。
ダンスだけではなく、 ギター・バイオリン・歌のトリオも見もの。
こどもから若者、ベテランまで層が厚い。
少年のソプラノも可愛らしいけれど、おじいさんの味には及ばない。
熟練した演奏が始まると、祭りに来ている人たちの体が自然に動き出す。
歌のパートは、聴くところ。楽器だけのパートにくると、ステップを踏む。
ふと見るとアウロラが誰かとペアになって踊っている。
曲が終わると私のほうに来て、次の曲が始まるとステップを教えてくれた。
1,2,3. 1,2,3. 1,2,3....
曲が速くて難しい。
ひゃあ難しいと言いながら、もつれる足を動かしていたら、
音楽を感じてごらん、後は自然に体が動くに任せるんだよ、と
近くの人が教えてくれた。
日が暮れると、 食べ物屋台のあたりがいよいよ賑やかになってくる。
いい具合に酔いの回ったおじさんたちの間から拍手が沸き、
歌の即興合戦が始まった。
ギターとバイオリンが淡々と伴奏をするのに乗せて、
相手のことを面白可笑しく歌い上げる。
ワッと笑い声が起き、間奏が挟まると今度は相手の反撃。
なんと言っているのか知りたい。
と思ったけれど、アウロラに内容を教えてもらっても、
ふむふむなんて言っている間に歌は進み、遅れをとるばかり。
仕方ないので雰囲気だけを存分に楽しんだ。
(2005年11月)
2007年12月12日水曜日
鮮烈な赤
アマトランのことを書いたら、
ベラクルス州に着くまでのおそろしい一晩を思い出した。
アウロラの通うダンス学校は、極寒の町トルーカにある。
ウアパンゴフェスティバルへ向かう一行は、
土曜の夜にトルーカに集合し、貸切バスでベラクルス州へと走った。
「メキシコ」というと寒さとは無縁のようなイメージがあるが、
真夜中にトルーカから山を越えて走るバスの車内は
「冷える」どころの騒ぎではなく、セーターに冬用の上着、
マフラー、手袋、レッグウォーマー、
アウロラ家から貸してもらったひざ掛け、この全部で身を守っても
まだまだ寒くて、まずは足の感覚がなくなり、そのうちに痛みに襲われた。
その上、文字通りの「騒ぎ」にも悩まされた。
出発して間もなく、車内には「バンダ」のCDが爆音で流れ始めたのだ。
管楽器が山ほど入った編成の、それはそれは賑やかな音楽。
ソプラノサックスの音があれほど恨めしく感じられたのは、
後にも先にもあの時のみ。
陽気な騒ぎに耳をふさぎ、冷たく痛む足をさすりながら、
腕時計を見れば午前二時。
いつの間に気を失ったのか、目覚めればベラクルス。
窓の外はすっかり日曜の朝だった。
軽やかな足取りで教会から戻る女性たちの白い服がまぶしく、
繭のようなひざ掛けをたたんでガクガクとバスを降りると、
そこは楽園のような暖かさだった。
うーーんと全身を伸ばし、朝食のため市場へ向かう途中の道で、
パッとまぶしい赤が目に飛び込んできた。
2007年12月10日月曜日
シンクロニシティ
昨日話題にしたアレブリヘの長崎・タンピコ夫妻から、
今日、クリスマスカードが届いた。
ますます『シンクロニシティ』を読んでみたくなった。
が、「うれしい偶然もあるもの」というぐらいがいい気もする。
ケベードを読んでいてoráculo(「神のお告げ」)という語を引いたら
熟語で「palabras de oráculo」(直訳:神託の言葉)
=「どうにでも取れる返事」。
写真は、ベラクルス州アマトランで行われる
この地方の伝統的な踊りと音楽の祭典「ウアパンゴフェスティバル」
に連れて行ってもらったときに撮ったもの(2005年11月)。
この翌日、フェスティバルに招いてくれたアウロラの家族に会いに
一晩だけタンピコへ行った。
2007年12月9日日曜日
2007年12月7日金曜日
ことわざを叫ぶ
昼下がりの電車のホームで、
閉まりかけたドアに向かって大学生男子が叫んでいた。
その電車にゴトゴト運ばれていった彼のともだちがどんな状況にあるのか、
果たしてほんとうに「大丈夫」なのかは、想像するしかない。
「嫌い嫌い…」は「ことわざ」とは言わないのかもしれないが、
「ことわざ」と呼ばれるものには
「急がば回れ」のように教訓的なものや、
「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」のように「あるある!」というもの、
「暖簾に腕押し」のように、ある状況を巧妙に表現したものなど
かなりのヴァリエーションがあり、
強いてまとめるとすれば、
「技アリ」というようなうまい言い方故に、長く残っている表現というところか。
夜の電車に揺られながら、
ことわざにはどんなのがあったっけなと考えていたら、
あることわざの「技」に初めて気づいた。
「蛙の子は蛙」。
なんで蛙?と思ったことが以前にもあった。
だって、蛙の子は、おたまじゃくし。
あ、そうか!
はじめは「俺はおたまじゃくしだ!」と思っていたおたまじゃくしも
いつかある日……。
2007年12月6日木曜日
幸せって、
幕末に日本を訪れたスイス人エメェ・アンベール(Aimé Humbert)の
『絵で見る幕末日本』(茂森唯士訳、講談社学術文庫)を読んでいて
出会った一節に、こういう捉え方はいいなと思った。
日本で見たさまざまな鳥の話がひとしきり続いたあたりからの引用。
「日本語でツルというこの鳥の名前に、神性をあらわすサマという敬称を付け加えて、オツルサマとも呼んでいる。鶴は、亀とともに、日本人にとっては、長寿と幸福のシンボルになっている。そして、かれらの意見によれば、幸福とは、心の平安と明るい理性を持つことである。入り江の岸辺に住んでいる日本人の大部分は、いま述べたばかりの心の平安と明るい理性を持っている。」
異文化から来た旅人が描いた幕末の「日本人」の姿は
異なる時代に生きる私にとっても新鮮な驚きの連続。
2007年12月5日水曜日
南へ
「plaza Colónの近くを歩いていたら、こんな看板を見つけたんだ、
ちょうどカメラも持っていたから、撮った写真を送るよ。
本屋だといいなと思ったんだけど、よく見たらレストランだった」
本屋だといいなと思うところが彼らしい。
オアハカのサポテカ族の王家の血を引くという彼のところは
一家そろって読書家で、皆それぞれにバリバリ仕事をしている。
2006年の年初め、
総勢5人を乗せて故郷のオアハカからメキシコシティまでを
真っ赤なトヨタで駆け抜け、一台にも抜かれなかったことや、
友だちと三人でValle de Bravoに行ったとき
一泊二日の旅なのに、
コーディネートに合わせて二足目の靴を持ってきていたこと、
写真を撮るときにも妥協は許さず、
納得のいくアングルを探し抜いてからシャッターを切る姿を思い出した。
2007年12月1日土曜日
フランス(9)Le-Grau-du-Roiにて
「 ここに住んでいたときに、ウミネコがすっかり嫌いになっちゃった、
夜になっても鳴き通しで、うるさくてちっとも眠れないんだもの。」
イザベルさんのアパートは、港のほんとうにすぐ脇にあった。
ベランダから見下ろすと、
レストランのテラスを挟んで、たくさんの船が停泊している。
引越しの途中の冷蔵庫からソレーヌが出してきてくれたコーラを飲みながら
しばらく港を眺めた。
このあたりは、夏には夜遅くまで賑やか、
(観光客は、それでも、ウミネコよりは早寝らしい)
私が訪れた9月下旬には、半数ぐらいのレストランがすでに閉まっていたが
もう少し寒くなるとシーズンオフになって、町はひっそりするらしい。
町の名前にある、Roiは王。でもGrauって何だろう、と思って
小学校の先生でもあるイザベルさんに尋ねると
ここLe Grau-du-Roiは、十字軍の頃にできた町で、
Grauはラングドックの言葉で、海へ続く道のことだと教えてくれた。
ドイツからの観光客が多いのか、ドイツ語しか書いていない。
ドイツ語はさっぱりわからないが絵が雄弁で、
どんな危険があるのか一目でわかる。
浜のほうに「砂浜の彫刻家」がいると聞いて、連れて行ってもらった。
「今日もいるかしら? いつもいるとは限らないんだけど……」
いた。
40代前半くらいだろうか、長髪でしゃがれ声のその人が、彫刻家。
この日つくりあげた砂の彫刻を前に、色々説明してくれた。
砂に糊を混ぜる人もいるが、自分は絶対使わない。
砂の彫刻っていうのは、もともとつかの間の(éhémère)存在なんだから。
朝からつくって、その一日楽しんで、翌朝来てみるとくずれている。
それでいいんだ。
抽象作品もつくりたいんだけど、
それじゃあコインを投げてくれる人がいない。そういう作品は、
却ってこどもたちだけが理解して気に入ってくれたりするんだけど。
でもやっぱり、わかりやすい作品をつくれば
足を止めてくれる人が多いから、
ウミガメとか蛇使いとか、こういうのをつくるんだよ。
作品を撮った見物客たちが送ってくれた写真が
アルバムにして置いてあった。
そのなかで気になったのは、
アフリカ大陸と、それを両脇から支える女性二人の像。
「アフリカには、僕たちとは違う世界観がある。
女性が生活を支えてるんだ。
自分たちの世界観が絶対ではない、
別の世界もある、と伝えたかったんだよ。」
すっと冷たい風が通り抜け、気づけばだいぶ陽が傾いている。
「朝日と夕日のときが、ちょうど今が写真を撮るにはもってこいの瞬間。
光が強すぎても、弱すぎてもだめなんだ。」
この彫刻家の想像力のなかでは、
人魚姫の物語の結末も変わりそうに思えた。