2010年9月30日木曜日

火ガ華


天界に咲く、という曼珠沙華は
純白の花らしい。

それが、なぜ
目が離せないのは
美しいからか、
空恐ろしいからなのかわからないような
鮮やかな紅色の花の名になっているのか。

花弁をくわっと開く前は、
点火する前の手持ち花火に似ている。

パウル

9月27日、
詩集 『Agend' Ars 』 の刊行を記念して、
管啓次郎先生と写真家の港千尋さんの二人をゲストとして
青山ブックセンター本店でトークイベントが行なわれた。

  ―「土星の輪が頭をめぐる」とパウルはいうが

と始まる、三番目の十六行詩。
以前、UNAMのラジオ番組で紹介するチャンスを得て、
スペイン語にさせてもらったもの。

…なのに、
その <パウル>が、パウル・ツェラーンのことだと、
この月曜日に聞いて、初めて知った。

そして、パウル・ツェラーンの名には、
ハンス=ゲオルグ・ガダマー『詩と対話』(巻田悦郎訳、法政大学出版局、2001)
という本で、ようやく今年の初夏に、出会った。

(すべて知らずに、ことばだけを移した気になっていたのが、はずかしい)

こうした結び目、「つながり」を知ったからには、
つながったその場所から、もと来たのとは逆のほうの「くだ」に進み、
光と風の来るほうへ進み、
これまで知らなかった出口に 顔を出して、見渡してみることが、面白い。


2010年9月29日水曜日

視覚と記憶と未来の向日葵


よく聞き取れなかったことでも、音として反芻してみると
「ああ、~~と言っていたのか」 と後からわかることがある。

通りがかりに、ガサガサと硬くなった植物の残骸が目に入ったが
とっさにその正体はわからず、
けれどその直後、記憶のなかの映像がよみがえって、引き返した。

夏には、瑞々しくまぶしい向日葵だったものだ。
その中心には、いま、頑丈な種がびっしり埋まっている。



2010年9月28日火曜日

3時16分10秒

ちかごろ使っていなかった腕時計を取りだして、
よく見ることもせず身につけて出かけた。

電車に乗りこんでから、何時のに乗れたかな、と確かめようとして、びっくり。
朝なのに、3時16分10秒をさしていた。

一瞬、時差を直し忘れたか、と思いかけたが、
メキシコ時間でもおかしい。
いや、そもそも、これはあちらに持っていったわけでもない。

何のことはない、電池が切れていただけなのだけれど

これが何月何日の3時16分10秒だったのか、
午前だったのか午後だったのか、

知ることはできないし、知ったからといって何ということもないけれど
やけに気になって、
結局、一日、動かない時計を腕に巻きつけたままでいた。


2010年9月26日日曜日

Agend' Ars の一節

管啓次郎先生の詩集 『Agend' Ars』 (左右社、2010年)をめくりながら
思考や記憶や想像力をつかさどる、
脳や身体やかたちのないどこかに血がめぐるのを感じる。

特に、いまの自分にとってビンとくるのは、
10番目の16行詩の、ある一節。

 (詩の一部分だけを抜き書くのは、
 ある人の目や腕だけをアップで映すようなものかもしれないけれど)。

------------
[…]
読むことだけが書くことの糸口に
なるような「文学」はいらない
ある土地を出て別の土地に移り住む
だけでは生命の沈思黙考が足りない
否定的な語法ばかりでは色彩が呼べない
犬も鳥も育たずサボテンは開花しない、だから
まず鉛筆を持たずに輪郭を想像せよ
[…]
------- 『Agend' Ars』, pp. 15- 16.------



このビンときた振動をどうやって生かせるかが、問題。



2010年9月25日土曜日

「見学ですか?」

せっかくなら青空の下で、と
持参したおひるごはんを広げるのに、
湯島天神の休憩所のベンチに目をつけた。

隣り合わせたベンチにいたおじいさんに、
座る前に「こんにちは」と、一応声をかけた。

するとしばらくして、そのかたに話しかけられた。
「見学ですか?」「いえ、この近くで用事があるので、その前にお昼を食べるのに寄ったんです」

こんなやりとりから始まって、
思いがけず、カナダで長い年月を過ごしたという人生の一端を聞かせてもらった。

電車で隣り合わせるひとも、
道ですれ違うひとも、
誰もかれも、
リアルな人生の物語を持っている。

もちろん、すれ違うひと全員と言葉を交わすことまではできないし
そうしようと思うわけでもないけれど、
時として、こうやって回路がつながると、
自分は関係性のなかで生きる 「ヒト」 なのだ、と意識する。


2010年9月24日金曜日

旅に出る杭

メキシコには、「英雄が望まれない」というメンタリティがあるという説をエドゥに聞いた。
誰かがずば抜けた才能を発揮させたり、偉業を成し遂げたりした場合、
称賛されるよりも、妬みの対象になり、つぶされてしまうことが多い、と。

それって、と私は言った。
日本にある諺に似てる。
「出る杭は打たれる」っていうのがあるんだよ。

すると、「誰に打たれるの?」と聞かれた。

みなが横並びでありたい周りの杭に、なのか。
杭が横並びでいてほしい、「杭以上」の存在に、なのか。
あるいは、「杭以上」の存在の思いのままになっていることに気づかない、周りの杭に、なのか。

るみちゃんが、あるとき「出る杭は抜かれる」といみじくも言い間違えた。
彼女は、「杭の高さ比べ」のようなメンタリティを超越した人。
抜かれた杭は、帆柱にでも転身しそうだ。

2010年9月23日木曜日

「すべて」

スペイン語は基本の母音が a, e, i, o, u の五つなので
日本語と似た響きのことばが時々あって、おもしろい。

メキシコで市場に向かって歩いていたある日のこと、
おかあさんが、手をつないだ小さな娘にむかって言った。

「すべて!」

勿論、ほんとうは、「全て」と言ったのではなくて、
 "Súbete"
…一段高くなった歩道に、「のぼりなさい」、と言っていたのだった。


けれど日本語に似た響きにどうしても敏感な自分のあたまでは、
一段高いところに登るよう促すことと、「すべて」という日本語について
あれこれ考えが始まっていた。




2010年9月22日水曜日

石榴と月

あの石榴の木はどうなっているか、
と思ったら、おお、やっぱり、立派に実っていた。

暮れるのが早くなった夕方の空には、まあるい月。

三人の姉妹(きっと皆小学生)と、よく似た感じのおかあさんの四人連れが、
すれ違いざまに月のことを話していた。

「きれいなみかづきだね」
「え、なあに、これは三日月じゃないよ」
「ええー、でも、これが<みかづき>っていってた」
「やだ、これは満月っていうんだよ」

以前、中学以来のともだちが教えてくれたページを思い出した。

2010年9月13日月曜日

フライ級

帰りの飛行機で、めずらしい人と隣り合わせになった。

行き先は東京と埼玉、というので、なぜ埼玉?と聞いたら、
「peleaがあるから。」
喧嘩? と思ったら、それはボクシングの試合のことで。
隣の席のオスカルさんは、トレーナー。

メキシコからはるばる試合に…?と不思議に思い、、
国際試合の場合、どんな風に対戦相手が決まるんですか、と聞いてみれば、
オスカルさんがコーチしているTomás el "Gusano" Rojas 選手はフライ級の世界2位で
20日の試合の対戦相手は、世界チャンピオンの河野公平選手とのこと。

オスカルさんに、日本の食事はどんな?と聞かれて
メキシコでのトルティージャのように、米を炊いたのを主食に食べると答えたら
はじめは何だか腑に落ちないような感じだったので
トルティージャの代わりに、米を炊いたのを食べるんですよと言い直したら
「え、トルティージャは食べないの?あんなに美味しいのに!」

食事がちがっても、最高のコンディションで試合ができますように。