2010年1月31日日曜日

葉陰のトカゲ

「トカゲ」 と日本の辞書・事典で調べたら、
必ずと言っていいほど「尻尾を切って逃げる」ことが出てくるのに

スペインの王立アカデミーの辞書でLagartijaを調べたら
「背側は茶色、緑あるいは赤っぽい色で、腹側は白い。
 すばしこく、こわがりで、 虫を食べ、瓦礫の間や壁の穴に住む」

(ちなみに Espasa 社の百科事典の Lagartija の項には、
「尻尾は長く、また再生できる」という記述もあった)

なぜ「トカゲ」など調べる気になったかというと
メキシコでは、 Lagartija ということばに「腕立て伏せ」という意味もあって
(hacer lagartija トカゲする、というように使う)

実際メキシコで見かけるトカゲたちは、
くいくいくい と腕立て伏せをするような動きをよくやっていて、
それ以来、腕立て伏せをする度にあのトカゲが目に浮かんで仕方がないから。

スペインのトカゲも、壁の穴のなかでひっそりと腕立て伏せしているんだろうか。
日本のトカゲも、尻尾が生え変わるのを待ちながら、せっせと腕立て伏せするんだろうか。

2010年1月30日土曜日

「正鵠を射る」という表現が出てきた。
明鏡国語辞典で確かめれば、
意味はやはり「的を射る」と同じで「物事の核心をつく」こと。

正鵠というのも、「弓の的の中心にある黒点」のことだという。
この「鵠」とは、何の鳥だろうか。

大辞泉によれば、【鵠】くぐひ、白鳥の古名。

【鵠髪】(コクハツ)と言えば、白髪のことらしい。
弓の的の「黒い点」が、白い鳥で表されているのが面白い。

新漢語林によれば
一。
①くぐい(くぐひ)。白鳥。こうのとり。雁より大きく、羽毛は白く、
非常に高い所を飛ぶ水鳥。
②白い。

二。
①まと。弓のまとの黒ぼし。「正鵠」
②正しい。あきらか。

三。
大きい。

第一の語義と第二の語義は別の項目を立てて書かれているが、
弓の的の中心にある黒点が、白い鳥の名で呼ばれているのは、
「非常に高い所を飛ぶ」鳥であって、当てるのが困難であることからだろうか。

空を見上げると
高く遠い逆光のなかに、小さく黒い点のように見える白鳥の姿も思い浮かぶ。

2010年1月27日水曜日

地上と地下


冬の日のくっきりした影を見て、
木の地上部分が上に伸び、横に広がるのと同時に、
地下の根も、垂直に、水平に、広がってゆくことを思った。

2010年1月26日火曜日

ショート

年代もののヒーターをつけたら、
プラスチックが焦げるような匂いがしたことが何度かあった。
それを使うのはやめた。

けれど、新しいヒーターをつないだのに、また焦げ臭く、
これはおかしいと思って匂いの元をたどれば、
延長コードのプラグの部分が熱くなり、溶けて変形していた。

一歩間違えば火災にもなりかねない。気をつけなくては。

2010年1月25日月曜日

まぶしい

「まぶしい……」が口癖の女の子が出てくるドラマがある。
縁あって、第一回と第二回目を見た。この先はどうなるのだろう。

「まぶしい」と言えば、偶然年末ごろに、その語源は「目伏しい」
つまり、目を伏せてしまいたくなるということなのではないか、

と、ふとした拍子に思いついた。

「まぶし」と辞書を引いたら、
【目伏し】 「目つき、まなざし」と出てきた。(デジタル大辞泉)

目つきというと、どこか無遠慮な感じ、
眼差しというと、じっと見つめるような感じ、
目伏しというと、なんだか奥ゆかしい感じがする。

さて、「まぶしい」に戻れば、その語義は
 1.光が強すぎて、まともに見にくい。まばゆい。
 2.まともに見ることがためらわれるほど美しい。また、尊い。

第二義は、「目伏し」のイメージとの接点がありそうだ。

第一義に関連しても、思うところがある。
「眩しい」という漢字と、
スペイン語で「眩しい」を意味する "deslumbrante"には、通じるところがあると思う。

漢字では、目が(強い光を受けて)、黒く/暗く見えるようなのが「眩しい」であり、
スペイン語では、 lumbre(火、光)を des- (奪う) ようなのが、deslumbrante.

「目」に光の洪水の「白」を組み合わせるのではなく、
「光があふれるような」というのでもなく、

漢字では目が、むしろ黒さ、暗さ=光の「不在」を感じるということによって、
スペイン語では、光が「奪われる」ほどに、ということによって、

逆説的に、目にとって耐えられないほど光が強い様子を表すのは面白い。

2010年1月24日日曜日

蝋色蝋梅六角形


香りのいい蝋梅が、いま花盛りだ。
光を透かすと、やわらかいランプシェードのように見える。


そして枝を見ているうちに、あることに気がついた。



2010年1月22日金曜日

電子辞書のいたずら

電子辞書を愛用している。

ふと見たら、引いた覚えのない「高浜虚子」の項目が出ていて
不思議に思いながら、電源を消した。

直後、何が書いてあるかと思って、今度は意図的に引いてみた。
私の目は一箇所に釘付けになった。

たかはま-きょし […] 本名、清(きよし) […]」


紙の辞書のどこかのページを何も考えずにぱっと開くような、
あるいは、糸井重里氏の「ほぼ日」の土曜日のランダムボタンのような、
そんな偶然機能が電子辞書にあったら、ちょっと面白そうだ。

2010年1月20日水曜日

若木

甥が、もうすぐ生後二ヶ月をむかえる。

スペイン語の、年齢の表し方は、
初めて学んだ外国語が英語だった自分としては
興味深かったことを思い出す。

He is two months old. という文章は
El tiene dos meses. となる。 
tener は be動詞ではなく、英語のhave に相当する「持つ」という動詞。

もちろん、「何ヶ月」ではなく「何歳」となっても同じで、
90歳なら、
El tiene noventa años.

甥が生まれてから2ヶ月分の経験(と栄養と睡眠と)を蓄えて
こうしてすくすく大きくなっているのだなあと思ったら
"tener" 式の言い方が、とてもぴったりくる気がした。

イメージとしては、
年月を重ねるごとに次第に太くなっていく樹木の幹のような感じ。

若い木が、となりの大木にたずねる。
 あなたは、何年分持っているの?
 わたしは、90年持っているよ。

2010年1月18日月曜日

つぼみ、咲きはじめる


「つぼみ」ということばは、
今はつぼんでいるのが、これから開いて花が咲く という予感があって
なんだかいい。

「つぼみ」の漢字を思い出したら、「味蕾」ということばが頭に出てきて
イメージの上で、あるコンセプトとつながった。

"Aquired tastes"

管啓次郎著『ホノルル、ブラジル 熱帯作文集』(インスクリプト、2006年)によれば
「はじめはなじめなかったのにいつのまにか大好きになった、獲得されたあれこれの嗜好」(p.34)

わたしたちの舌には無数の蕾があって、
新たな味に出会ったとき、最初それはぎゅっと結んで抵抗するのだが
いつしか新たな嗜好が開花する、、、そんな図をひとり、思い浮かべた。

2010年1月15日金曜日

世界中のアフリカのかけら

一週間前の1月9日、土曜夜の新宿 Naked Loft で
「世界中のアフリカへ行こう2010」 というイベントがあった。


大久保の韓国人街を迷い迷い歩きながらようやく着いたらアフリカ会場は超満員。
ようやくのことで、立つ場所が確保できた。


第一部は、旦敬介さん、管啓次郎さん、中村和恵さんによる朗読
第二部は、ロジェ・ムンシ・ヴァンジラさんとゾマホンさんによるトーク
第三部は、ママドゥさんとボカさんによる演奏

三本立てのその全体が、全体として、とてもよかった。

作品として書かれたテクストは、研ぎ澄まされ、凝縮されていて、
 知らない世界を知るために最初にひらく扉のよう。

トークは、生の現実を知る人が、生の情熱で、生の声で、伝えるもの。
 見ない振りができない、聞こえない振りができない、だってそこで本人がしゃべっているのだし、 
 それを聞くために、わたしたちはそこにいるのだから。
 衝撃的な事実の数々。それを知らずにいることの、無責任さに直面する。

音楽は、こう言ってしまっては陳腐だが、意味を超えたところで、つながることを可能にする。
 そして、持って当たり前だがおかしなことにふと忘れてしまうような、
 自分とは違う見方、考え方、感じ方を持っているひとに対する敬意を持つことを。


ママドゥさんは、「コラ」という弦楽器と、打楽器(名前を忘れてしまった)に
羊の皮、山羊の皮が使われていることを説明したとき、こう付け加えた。
羊や山羊が、ぼくたちと一緒に演奏しているんです。

日本で一番困るのは、時間に対する感覚の違いだとおっしゃっていた。
「7時02分の電車に乗らなければ」とか「18時54分に番組が始まる」とか
時間がない、時間がないと口を揃えて皆が言うけれど、ぼくはこう思うんです、
明日もあるじゃないか、あさっても、あるじゃないかってね。

西洋の音階にコラを調弦し直して演奏した曲には
「おじいさんの古時計」と、「あしたがあるさ」のメロディーが織り込まれていた。
音階はFメジャー。小さいころからずっと、最も暖かいとわたしが感じてきた音階だった。



関連書籍がある。
中村和恵編 『世界中のアフリカへ行こう  <旅する文化>のガイドブック』
(岩波書店、2009年) 読み応えがある。

2010年1月10日日曜日

言葉に編み上げ、人に語る

管啓次郎さんの新刊 『斜線の旅』(インスクリプト、2009.12.25)に
深呼吸をしたくなるような一ページを読んだ。

「あ!そうなのか」というよりもむしろ、
「やはり、そうだ」という部分の多かった、共振の一ページ。

その前半も素晴らしいのだが、敢えて後半だけに絞って引用したい。



「驚くべきことをまのあたりにした人は、その事件を言葉に編み上げ、人に語るべきだと思う。
目が覚めるような話を耳にした人は、その話を中継し、さらに語り直すべきだ。
その連鎖には、もちろん数々の嘘や誤解がつけいることだろう。
しかし少なくとも連鎖を続けてゆくこと、とぎれさせないこと、最終ヴァージョンの存在を許さないことが、
人々の興味を対象につなぎとめ、つねに新たな見方や思いがけない知識を呼びこむことになる。
究極的には、人があるときある場所にいるということは、それだけで途方もない偶然であり、
あらゆる展開につながってゆく稜線の小径なのだと思う。」(「湖とハリケーン」、『斜線の旅』 27ページ)



ここ10年間の自分を振り返り、
これからの10年に対する背筋が伸びる。

2010年1月7日木曜日

切り開く運

新年のご挨拶が遅れている皆様、申し訳ありません。
昨年末にやり遂げられなかった仕事の続きをしているうちに
七草粥の日になってしまいました。

七日遅れですが、新年のスタート!
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今日、電車のなかで面白い出会いがあった。
隣同士に座り合わせた人と、ひょんなところから会話が始まった。

どちらから、と尋ねれば、チベットからの留学生だった。
名前はソナムさん。

どういう意味ですか?と聞くと、 

-ちょっと違うけれど、運がいい、運が悪いというときの、"運"みたいな意味です。
-ちょっと違うというと、ほんとうは、どういう意味なんですか?
-運がいい、というと、それは偶然に決まるようなものだと思いますが、
 ソナムということばの意味は、自分でよくしていく運ということなんです。

なんて素敵な名前だろう。 そう言うと、

-でも、チベットでは、たくさんある名前です。日本で言う、田中みたいなもの。
-あれ? ソナムというのは、名字ですか?
-いいえ、名字ではありません。チベットには、名字はないんです。

名字がないとは!こんなに近い国なのに、知らないことばかりだ。
聞けば、チベットでは、こどもが生まれると偉いお坊さんが来て、
そうして名前をつけてくれるのだそうだ。

それにしても、切り開く運とは、ちょうど最近考えていたことにもつながっている。

「運命」と名づけたくなるような、人の力では抗しがたい何かも存在するのかもしれない。
それでも、悪い運の風が吹けば帆を降ろし、よい運ならば帆をはって
まずい風はやり過ごし、よい風ならば見方につけて、わたっていきたい。

2010年1月1日金曜日

小鳥、言葉

コトリ。
カタカタ
         カタコト
コトリ。
カタカタ    
         コトバ?
コトリ。
コ、トバナイ
         コトバ、ナイ?
         カタコト
コトリ。
コ、トベナイ
         コトベ、ナイ?
         カタコトカタコト
         コトバ
         カタリ
コトリ。

コ、トベル、カナ       
         カタリ
         コトバ、トベル。
コトリ。
         コトリ、トベル。
コトリ。
         コトバ、トベル。
コ、トベル
カモ、シレナイ

         コトバ、トベル。
         コトリ、トベル。
コトリ。
コ、トベル、キット、
         コトリ、
         カタコト、
         カタリ、
         コトバ、トベ

コトリ。
カタリ。
コ、トブ。
         コトバ、トベ
コ、トブ
コトリ、トブ
コトバ、トブ
コトリ、トブ。

         コトバ、トベ
         コトバ、トベ
         コトリ、トベ
         コトバ、トベ。