2009年6月14日日曜日

詩と楽譜

ビジャウルティアの詩を改めてじっくり読み直しながら、
解釈する interpretar ということについて考えた。

解釈ができた(と思えた)ら、何と詩が「生きて」見えてくることか。

interpretar は、楽曲を演奏する、歌うという意味でもよく使う。
楽譜も、それ自体では単なる記号の羅列にすぎず、
interpretar されて初めて、記された音楽が「生きる」。

なんてことを考えていたら、ちょうど昨日
ずいぶん前に放映された番組『詩のボクシング』のアンコール放送というのがあって
その中で谷川俊太郎氏が、「印刷された詩は、楽譜のようなもの」と言っていた。

ただ、この場合の「印刷された詩=楽譜」は「詩の朗読=コンサート」と対置されたもので
詩は、声に出して読まれてこそ生きるのだ、という主旨だった。

番組の司会者やイベントの主催者のコメントには
とくに作者自身が読んだ場合が特別、という含みもあったように思う。

確かに、今まで聞いたことのある、作者自身による詩の朗読を思い出してみれば
文字で、自分で、黙読したときとは、まったく別物だったという感触がある。

じゃあ「印刷された詩」を黙読することに何の意味がある?
それは、味気のないもの?


オーケストラの指揮者がスコアを見ただけで全体の響きを「聞ける」ように、
あるいは、そこまで行かなくとも、
楽譜を読む訓練をしていたら、楽譜を見ただけでメロディーが「聞ける」ように、

それぞれの言葉と、言葉同士のつながりと、そのすべてが作る「全体」を捉えられれば
つまり「解釈」の意味で interpretar できれば、もう半分以上「演奏」に近づいていると思う。
あとは、それを音にできるかどうか、あるいは、音にするか、頭にとどめるか。

作者の朗読が格段に「いい」のは、作者の「解釈」がはっきりしているからだろう。

なんだ、「詩は解釈しなければならない」ということに戻るのか、
結局「頭でっかち」擁護か、
と思われるかもしれないけれど、それは強要するものではない。

ただ、楽器が弾けたら、歌が歌えたら面白いのと同じように、
詩を interpretar できたら面白い、と思う。