めぐりあわせで、チャプルテペックの湖の脇で創作のクラスに短期参加している。
私の他は、皆40~50代。
今日は、その先生が各所で持っているクラスの参加者の発表会があった。
6時から、場所はアイリッシュパブのテラス。
いつもお洒落な人だが、今日はぱりっとした上着にネクタイがまぶしかった。
総勢8名、大学生から中堅の年代までの自作朗読は、
面白くて笑ったり、わからなくて悔しい思いをしたり、言葉の操り方の自在さに目を見開いたり。
とても面白かった一篇の後には、隣に座っていた黒い皮ジャケットの素敵な女性と目が合った。
後から、その女性は先生の奥さまだと知った。
プレゼンテーションが終わった後に同じクラスのマリ・テルさんと話していたら、
マリ・テルさんと面識のある奥さまも、話に加わった。
とても面白かったと言うと、
「あの人はこのために生きているようなものなの、
いえ、このおかげで生きているというべきかしら。」
先生は、体の自由が利かない。
病気のために両足と片腕を失い、残った左手も自由に使える指は限られている。
不自由な体になった先生は、三年前、生きる気力をなくしていたという。
そのとき、以前からクラスを受けていたある人が、
ぜひ先生のクラスでものを書きたい、先生でなくてはいやだ、
移動が大変ならば、先生のお宅に行きますから、と言い張って、そしてクラスが再開された。
今では、四箇所で教えている。
今では、家に帰ると、その日のクラスでは誰がどんなものを書いたとか、
どんなコメントが出てきたとか、あれこれ話すのが習慣だという。
うれしいことに、途中から加わった私のことも奥さまは知っていた。
生きること。形容詞でなく、動詞的に。