2010年12月25日土曜日

『ゴッドスター』

古川日出男さんの中編小説『ゴッドスター』は、
今年の「新刊」ではないけれど今年文庫化されたもので、
新しく出た本のなかで私が読むことのできた、数少ない本の一冊です。
というか、
本当は「面白いもの断ち」をしていたはずの時期に
つい買ってしまい、つい読み始めてしまい、
ぐいぐい引き込まれて、途中で閉じることができなかった本です。

私の記憶が確かであれば、
「この小説に解釈はいらない」と著者が語っていたそうですが、

それはきっと、『ゴッドスター』が
読者をひとつの体験に巻き込むような種類の小説だということなのだろうと思います。

「体験に巻き込む」というのは、

読んでいる私が、主人公と一緒になって
聞いているはずのに聞こえていない音に耳をすまし
見ているはずなのに見えていないものに目を向け
そのなかで毎日生きているはずなのに、よく考えてもみなかった仕組みについて考えるように
一つ一つの動作、一つ一つのことばを丁寧に捉えなおすように
自然に仕向けられていて、

そうして感度を高められる読者=私の感覚は、
小説のなかの世界に対してのみ有効であるというわけではなくて、
読んでいるときに自分が居る部屋の空間のなかにも、部屋の外に広がる世界にも向けられて、
それどころか、読み終わった後にも、
その感覚が鋭くなったままである、というようなこと。

その意味では、
一般的な小説よりも、詩に近いような本であるようにも思います。


2010年12月20日月曜日

舟唄

息を吸いに、走りに、たびたび行く公園はとても広くて、
管楽器を練習したりギターを弾きながら歌を練習したりしているひとが
いることは、さしてめずらしいことではないのですが、
今日聞こえてきたのは特別なものでした。

舟唄、でしょうか。
おじいさんの深くてつややかで息の長い歌声があたりに響きわたり、

船着場で到着を待っていて、まだ姿は見えないが遠く舟唄が聞こえてくる、

そんな情景が、一瞬のうちに広がるようでした。








2010年12月16日木曜日

「見てくれなかったなあ~」

松涛の路上で、斜め前を歩いていた小2くらいの男の子がひとり、
大きな声で

「あ~あ、オレの逆ランドセル、
誰も見てくれなかったなあ~」

見れば、ランドセルを上下逆に背負っている。

あ、 
と、男の子の視線と私の視線が交差したので
 (なぜ振り返ったんだろう、あの子は。
 と考えてみて、今日はブーツを履いていたので
 靴音で気がついたらしいことに思い当たった)

「おもしろいこと、かんがえたね」

と声をかけてみたら、

「おもしろくなんか、ないよ。
ただ、逆にしょってるだけ。
あと、上にカサもさしたけどね。」

たしかに、うなじの辺りにきているランドセルの底部には
閉じてきちんと巻かれた傘が一文字につきささっている。
 (いま、その仕組みを考えてみると、
 べろんとしたフタ部分を留める金具部分と
 ランドセル本体の間にできる隙間を利用したのだろう)

「誰か、見てくれないかなあ」ではなくて
「誰も、見てくれなかったなあ~」というのが、巧いなあ。

2010年12月7日火曜日

ヤギはヒツジよりも暖かい

電車のなかでめくった文庫本の一枚のページから
しんと冷える夜、体を縮めて横になり
濃紺の空にちら、きら、と輝く星は相変わらずきれいだが、
しかし寒い、
風がおさまったままでいてほしい、
寒い寒い、と
隣にいる痩せたいきもののぬくもりに寄り添う心持ちを想像した。


 「ヒトが間に入って眠るのには、ヒツジの方がヤギより冷たい。
 なぜなら、ヤギの方が身動きしないし、ヒトの方へ寄ってくるからである。
 ヤギはヒツジより寒さに耐えられないのである。」
     アリストテレース『動物誌』 (下) 第三章 「ヒツジやヤギの習性と知能」
     島崎三郎訳、岩波文庫、1999年、121頁。


2010年12月4日土曜日

世界を相手にする話

道を歩いていて、二人連れとすれ違うときに
耳をすましているわけでもないのに
こぼれ聞こえてくる会話のかけらがある。

先日、ついキャッチしてしまい、気になったかけらは
散歩中の老夫婦(と見えた二人連れ)の、おじいさんの方のことば。

「でもあれじゃ、世界には、通用しないよなア」



2010年12月3日金曜日

失せものはくすくす笑っている

メキシコ国立図書館の奥まったところにあるアーカイブで
手間と時間をかけてようやく手に入れた画像データなのに、
けっきょく使わないことにしようとしていたのを
いや、やはり使おうかと思い立ったら、なんたることか、
そのディスクは、あるべきところになく、範囲を広げて探しても見つかりません。

こういう状況のとき、エルバさんは
(個人的な使い方なのか、それとも慣用的な表現なのかわかりませんが)
さがされているものが、どこかに隠れて、くすくす笑ってる といっていました。

こどもたちの、かくれんぼの、かくれている方みたいな気分を
「失せもの」(さがしている私から見れば)が味わっているということでしょうか。
降参するから出てきてほしい。