雨戸を閉めようとしたら、まるくて明るい月が目に飛び込んできた。わ、満月!と思いきや、満月は、あす3月1日でした。明晩も晴れますように。
今日はこどもたちが遊びにこないな。と、公園で待っているパンダのように、目下わたしが取り組んでいる論文の中身も
日に焼けながら、砂をかぶりながら、
早く書いてくれよと思っているのかもしれない。
よそのお宅の庭先をのぞいているわけではないけれど歩きながら何気なく目を向けた拍子に、見えてしまった。水色プラスチックでできた、
洗濯ばさみが四列くらいずらりと並んだ洗濯干しが二つかけてあって、そこに規則正しく干されていたのは洗濯ものではなくて、
黒っぽくて小さくて丸みをおびた、あれはまちがいなく、椎茸。通りすがりの猫にも、おなかを空かせた鳥たちにも狙われることなくぎゅっと味の凝縮された干し椎茸ができることだろう。
角を曲がったら、小学生の女の子ふたりの楽しげな笑い声に出会った。ふふふと笑いながら歩く二人の後ろから、お母さんが笑顔で見守っている。笑顔が三つ進む。ふたりは、双子。髪は同じように二つ分けで元気に結ってもらって白い上着、ジーンズに、ピンクの靴のいでたちもお揃い。いち、に、いち、に、 たたたたったた ふふふきゃー待って、 たたた たたったた 合った、いち、に、いち、に。 たたたたたたったた ふふふふふもう一回、 えーと、たた た たたたた いち、に、いち、に。ふふふ一人は、姉妹ふたりで二人三脚の状態にしようと足並みを合わせ、もう一人は、わざとリズムを乱して足並みをばらけさせようとして、いち、に、いち、に。 たたた た たた ふふふふ 待ってーの繰り返し。楽しそうな二人を見守るやさしい視線と目が合って、
かわいいですね、と笑顔を返した。
舳先が分けていく水は、少し膨らんで、行く手を阻むようにも見える。通った直後の水はへこみ、波紋が広がる。
梅の枝、梅の花が、
こんな風に雪綿帽子をかぶっていたのは、束の間のことだった。
雪はほんの数時間ですっかりとけて、
何ごともなかったかのように消えた。
陽射しを受けた梅の花は、けろりとしていた。
2008年の2月14日夜、メキシコシティ、サン・アンヘル市場の近くにて。懐かしい(形)なつかし 〔シク〕動詞「なつく」の形容詞化1.心がひかれて離れがたい。 ア.魅力的である。すぐそばに身を置きたい。 イ.好感が持てて近づきになりたい。親しくしたい。2.かつて慣れ親しんだ人や事物を思い出して、 昔に戻ったようで楽しい。3.引き寄せたいほどかわいい。いとおしい。4.衣服などがなじんで着心地がよい。 (デジタル大辞泉)
気になるスペイン語。Parábola: 1.(宗教的・道徳的な)比喩、たとえ話、寓話 2.(数学)放物線Hipérbola: (数学)双曲線Hipérbole: (修辞学)誇張法 ちなみにこの二語(HipérbolaとHipérbole)の
語源となったギリシャ語は、おなじもの。 ギリシャ語がわからないのがくやしい。
2月5日、日本ペンクラブ「こどもの本委員会」のイベントを聞きに行った。おなかをすかせているこどもたちに対して、本は、物語は、何ができるのか?というのが、ディスカッションのとっかかりとして、
落合恵子さんが(サルトルを引用して)投げかけた、大きな問いかけだった。パネリストの方々のお話はそれぞれのお人柄が出ているように思われ、なかでも、(赤にグレーの色あわせがチャーミングだった)角野栄子さんのことばになるほど、と思った。私の理解とメモ書きが正しければ、戦争が終わったときに小学校5年生だった角野さんは、飢えも経験したし、飢えたときに大人たちがいかにあさましくなるのかも、そして子どもたちがいかに逞しく生き抜いたかも、知っている。ご自身がこどものときには、すでにできあがっていて読めるような物語がなく、自分で自分自身の物語をつくっていくことによって自分の置かれた状況と、自分の気持ちを確かめて、それを支えにして、たいへんな状況を生き抜いた。角野さんが書きたいのは、読者が物語を読み終わって本を閉じてから、読者自身の新たな物語がはじまるような
(その新たな物語に刺激を与えるような)、そんな本だという。配られた資料のプロフィールに、
1959年から二年間ブラジルに暮らしていらっしゃったとあってますます、角野さんご自身について知りたくなる。
昨日、青山ブックセンターで越川芳明さんと管啓次郎さんの
トークショーを聞いてきた。
タイトルは「旅と翻訳」。
管啓次郎さんが
ニューメキシコで撮った写真のスライドショーに
夕焼け空が、斜めに切れて、青空と分かれているのがあって
あっ
去年の夏、Edu と見た、斜めの夕焼け空と同じだ。
枯木のように見えていた紫陽花の枝に、新芽が出てきた。花芽でもないのに、リュウノヒゲの実のような紫色をしている。
2007年に幸恵さんと行ったスペイン領カナリア諸島について昨晩テレビで番組をやっていた。私たちを迎えてくれた友人Adoが案内してくれたLa Laguna の旧市街を懐かしく見た。(行ったことのある場所が、
本や新聞や雑誌やテレビや映画で 出てくると、なぜかとてもうれしくなる)と、テネリフェ島案内の続きで
椰子の木が立ち並ぶ、長い長い並木道が映った。ああこれは、コレステロール通りというのだと教わった道だ。当地では糖尿病のひとが多くて、運動のためにそこを散歩するのだとか。と、テレビではそのコレステロール通りが「愛の小道」と紹介された。テネリフェ島のグァンチェ族と、そこに入植したスペイン人の居住区をつなぐ道でグァンチェ族とスペイン人の間の愛を育む道だったこと。実際、混血はどんどん進んだこと。あの椰子並木は、「つなぐ道」でもあり「歩き語らう道」でもあり、「運動として歩く道」ともなり。
初雪の日に開くかもしれないなあと思っていた
レモンのつぼみが、
立春の今日そっと開いているのを見つけて
え、と思ってから、ほんとうに咲いているのを確かめて
それから、あっ、と声が出た。
るみ画伯さま、レモンの花はこんな色をしています。
雪が積もった朝は、音が吸い取られて静か。高校時代、部活動の演奏会のリハーサルのときにOBが教えてくれたことを思い出す。今は客席が空だから音が響いて聞こえるけれどお客さんが入ったら、音が吸い込まれて小さくなるからね。特に、冬場は皆、もこもこ着込んでいるから。だとすれば、客席の人が皆、音を吸収しないような素材に身を包んだらどうだろう。スピードスケートのウェアのような。響けばいい、というものでもないか。
静夜 外燈白 冷柔覆雪