昨日、メキシコ対アメリカのサッカーの試合があった。
領土の多くを奪われた歴史や、不平等な貿易関係、移民労働者の問題など
さまざまな理由によって、
メキシコでは強い反米感情を持っているひとが少なくない。
アメリカ代表チームは、
宿舎から競技場まで厳重な警護体制のもとで移動したそうだ。
競技場の内外も警官だらけ。
試合開始は午後3時。
メキシコ市では昼食の時間に当たる。
こうした対戦の試合を夜にしないのは、危険回避の一策らしい。
試合が始まってからしばらくして、
近所に「ゴーール…」の声がぽつんと響く。
アメリカの先制。
またしばらくして、
「ゴーーーーーーーーーーーーーーール!!!!」に拍手。
今度はメキシコが同点ゴール。
さらにしばらくして、
「ゴーオオオオオオオオオオオオオオオオオル!!!!!!!!」拍手拍手拍手
メキシコがついにリード。
さらにしばらくして、ただ拍手だけが響いた。
メキシコの勝利で試合終了。
試合を見ていなくても、なんとなく予想はつくのが面白い。
夕方、付き添いで病院に行ったら、受付の男性も
メキシコチームの緑シャツを着ていた。
2009年8月10日月曜日
呼びかけることば
スペイン語は、呼びかけることばがとても豊富。
自分が使う日本語では、
知っている人ならば名前で呼ぶし、
知らない人に声をかけるときには
つまり食べ物屋やお店で店員さんを呼ぶときや
落し物をした人に呼びかけるとき、
「あの…」とか、「すみません」ぐらいしか思いつかない。
(メキシコの)スペイン語の場合
セニョール(男性に向かって)
セニョーラ(女性に向かって)
セニョリータ(建前としては、未婚女性に向かって。レストランなどでは、
かなりの貫禄のあるおばさんに対しても、セニョリータと呼びかけていたりする。
お世辞の一種なんだろうか)
は基本だが、状況によっては、
男性に対して
ヘフェ(Jefe) →ことばそのものの意味としてはボス、上司
日本語だったら、そのままの意味でない「社長」のような言い方に当たる?
ただし、こびたような感じはまったくない
カンペオン(Campeón)→チャンピオン
女性に対しては
リンダ(Linda)→かわいい女性、きれいな女性
グアパ(Guapa)→美人
レイナ(Reina)→女王
この辺りは、友達や家族の間でも使われれば
食料品店の店主が客に対する受け答えで使っていたりもする。
恋人同士、夫婦、あるいは親から子に対して
ミ・アモール(Mi amor)→英語にすれば、My love
ミ・ビーダ(Mi vida)→My life
ミ・コラソン(Mi corazón)→My heart
などもある。
どこかのお店のおばさんにMi corazónと初めて言われたときは
びっくりしたが、他人と知人の境目がゆるい、この国ならではのことなのだろう。
自分が使う日本語では、
知っている人ならば名前で呼ぶし、
知らない人に声をかけるときには
つまり食べ物屋やお店で店員さんを呼ぶときや
落し物をした人に呼びかけるとき、
「あの…」とか、「すみません」ぐらいしか思いつかない。
(メキシコの)スペイン語の場合
セニョール(男性に向かって)
セニョーラ(女性に向かって)
セニョリータ(建前としては、未婚女性に向かって。レストランなどでは、
かなりの貫禄のあるおばさんに対しても、セニョリータと呼びかけていたりする。
お世辞の一種なんだろうか)
は基本だが、状況によっては、
男性に対して
ヘフェ(Jefe) →ことばそのものの意味としてはボス、上司
日本語だったら、そのままの意味でない「社長」のような言い方に当たる?
ただし、こびたような感じはまったくない
カンペオン(Campeón)→チャンピオン
女性に対しては
リンダ(Linda)→かわいい女性、きれいな女性
グアパ(Guapa)→美人
レイナ(Reina)→女王
この辺りは、友達や家族の間でも使われれば
食料品店の店主が客に対する受け答えで使っていたりもする。
恋人同士、夫婦、あるいは親から子に対して
ミ・アモール(Mi amor)→英語にすれば、My love
ミ・ビーダ(Mi vida)→My life
ミ・コラソン(Mi corazón)→My heart
などもある。
どこかのお店のおばさんにMi corazónと初めて言われたときは
びっくりしたが、他人と知人の境目がゆるい、この国ならではのことなのだろう。
2009年8月9日日曜日
2009年8月7日金曜日
書くこと、書く道具、考えること
中学の先生だったか、それとも浪人時代の予備校の先生だったか
何かを考えたり書いたりするときに、頭の準備体操として
尊敬する著作家の書いた明晰な文章を、書き写すようにしているのだと聞いた。
書くことと、頭の働きは、たしかに連動していると思う。
鉛筆で、ペンで、キーボードで書くことは
それぞれに違う作用を起こすようにも思う。
以前、UNAMの図書館でオクタビオ・パスの散文を書き写しながら
知性と自信に満ちた著作家に一瞬のり移られたような不思議な気分を味わったことがある。
あれがキーボード上だったら、同じことは起きただろうか?
そういえばフランスの大学では、テストの提出用紙はペンで書くのが条件で
鉛筆で書いたものは採点すらしてもらえないということになっていた。
時間をうまく配分し、鉛筆で構想と下書きをして、ペンで清書。
口頭で議論や発表をするときに「書き直し」はきかないのと同じように
書くときも、下準備をした上で、本番は一発勝負ということなのか。
パソコンでは、書き直しも、順序の入れ替えも、簡単、自由自在。
推敲に推敲を重ねられる利点もあるけれど、
時間内に、やり直しのきかないペンで書き上げなければというあの緊張感が
いま、自分に欠けていると感じる。
何かを考えたり書いたりするときに、頭の準備体操として
尊敬する著作家の書いた明晰な文章を、書き写すようにしているのだと聞いた。
書くことと、頭の働きは、たしかに連動していると思う。
鉛筆で、ペンで、キーボードで書くことは
それぞれに違う作用を起こすようにも思う。
以前、UNAMの図書館でオクタビオ・パスの散文を書き写しながら
知性と自信に満ちた著作家に一瞬のり移られたような不思議な気分を味わったことがある。
あれがキーボード上だったら、同じことは起きただろうか?
そういえばフランスの大学では、テストの提出用紙はペンで書くのが条件で
鉛筆で書いたものは採点すらしてもらえないということになっていた。
時間をうまく配分し、鉛筆で構想と下書きをして、ペンで清書。
口頭で議論や発表をするときに「書き直し」はきかないのと同じように
書くときも、下準備をした上で、本番は一発勝負ということなのか。
パソコンでは、書き直しも、順序の入れ替えも、簡単、自由自在。
推敲に推敲を重ねられる利点もあるけれど、
時間内に、やり直しのきかないペンで書き上げなければというあの緊張感が
いま、自分に欠けていると感じる。
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