楽しみのためというよりも
何かを「知りたい」という動機で読んだ本のなかで、
あたまを離れないものがある。
それは、トビー・グリーン著『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配』
(小林朋則訳、中央公論社、2010年)。
私に強いインパクトを残したのは、
扱われている題材や資料の性質のためだけでなく、
おそらく、次の二つの理由による。
まず、大半が歴史的資料の調査結果に基づく
考察・記述からなる研究書のところどころに、ふっと、
このような大変なテーマに取り組んだ著者の苦悩が、
姿を現すから。
たとえば、本の終わりのほうにでてくる、こんな一節に。
「たいていの人と同じように、私も異端審問について耳にしたことはあった。
しかし古文書を読む孤独な作業を始める前には、どれほど膨大な
情報を見つけることになるのか、まったく分かっていなかった。
恐ろしい苦悩やサディズム、自己喪失などの記録を読んでいると、
この世は夢も希望もないと思えてくる。これほど組織的な虐待を、
どうやって整理・分析して学問的に考えればよいか、見当も付かなかったのだ。
言葉で表現しようがなかった。
ときには、読んでいる物語のせいでなく、読みたいと思って古文書に戻る自分の冷酷さが
異端審問官たちが調査を実施したときの冷酷さと同じではないか
と幾度も感じられて、悲しくなることもあった。それでも、抵抗の逸話を見つけたときは、
威圧的で埃っぽい読書室で感じていた悲しみが、いくらかは晴れた。
またときには、制度が深い悲しみを残しつつも衰退していく様子に、
慰められることもあった。」 (第12章、p. 430)
二番目には、
異端審問に限らず、ほかの様々なことにも当てはまるであろう、
鋭い指摘が含まれているから。
とくに、次の箇所。(ここにも、著者は姿を現している)
「~の件では、こうした疑問に異端審問官たちはほとんど関心を持たなかったようだ。
それでも、ときには一部の審問官が、自分の動機に疑問を感じ、
なぜこれほどまでに他人を傷つけたがるのかと自問したのではないだろうか。
そう思っても、古文書は何も答えてはくれない。
沈黙が下りる公文書館で苦痛を研究していても、帰ってくるのは沈黙だけだ。
それでも、やがて一つの推測にたどり着く。
異端審問官たちが、あれほど冷酷な目的意識をもって囚人を拷問できた理由は
ただ一つ、
自分たちが絶対に正しいと確信していたからだはないだろうか、と。」
(第三章、p. 128)
なにかを信じることの大切さ、というのもある。
とくに、人と人との関係においては。
けれど、その「なにか」が、制度であるとか、言説であるとか、
正体があやしいものである場合には、
制度がこうなっているから、とか、これが正しいと「みなが」言っているから信じる、
それは、あまりにも危うい。
自分の頭で考えてみることが何事につけても肝心、と思う。
考えないのは楽かもしれないが、あまりにも、危うい。