2011年6月30日木曜日

トウガラシのひと

6月の初め、トウガラシの緑に少し変化がありました。

(写真は少し暗いくてわかりにくいのですが、
この時点では、左から二本目が、ほんのり赤みを帯びています)









さて、6月も最後の今日、トウガラシのひとたちはすっかり鮮やかな赤です。




見習いたいものです。



2011年6月23日木曜日

comunicar, pensar y sentir

マリオ・バルガス=リョサ氏の講演(6月22日)を聴きに行きました。

そのうちどこかで講演全文の訳を読めるようになるのでは?
と、勝手に期待しているのですが、
まずは書き取れた範囲で、自分にとって「響いた」ことばをいくつか抜き書きします。


―文学(literatura)が娯楽(diversión)であるという考えには賛同しない、
文学は、わたしたちの生き方(vida)に痕跡・影響(huella)を残すもの。

人間には、ことばという授かりもの(el don de la palabra)がある。
ことばによって可能になるのは、
・伝えること(comunicar)。
 細かいニュアンス(matices)も表現し相手に伝えるにはその言語を使いこなすことが必要
・考えること(pensar)。より明晰に(con claridad)考えること。
・感じること(sentir)。より深いかたちで、感じること。


―民主主義(democracia)は、
社会のシステムとして最良のものではないが、
それでも、不正・不当さの度合いが最もすくない選択肢である。

民主主義社会が機能するために
自由で独立した個々人(individuos libres e independientes)に求められるのは
参加すること(participación)、
批判精神(espíritu crítico)を持つこと。

文学は、現実の世界は
わたしたちが想像することのできる世界よりも
ずっと下(está por debajo de...)にあるということを、教えてくれ、
いまある現実のものごとに対して、安易に従わない態度(inconformidad)
をとることを可能にする。

すべての独裁的な権力(dictadura)は
「いまの生き方(la vida)は、あるがままでよく、 なにも変える必要がない」
と信じ込ませようとするものだが
文学は、それが偽り(falso )であることを、わたしたちに気づかせてくれる。


2011年6月6日月曜日

グリーン

昨年だったか、今年のはじめだったか、
楽しみのためというよりも
何かを「知りたい」という動機で読んだ本のなかで、
あたまを離れないものがある。

それは、トビー・グリーン著『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配』
(小林朋則訳、中央公論社、2010年)。

私に強いインパクトを残したのは、
扱われている題材や資料の性質のためだけでなく、
おそらく、次の二つの理由による。

まず、大半が歴史的資料の調査結果に基づく
考察・記述からなる研究書のところどころに、ふっと、
このような大変なテーマに取り組んだ著者の苦悩が、
姿を現すから。

たとえば、本の終わりのほうにでてくる、こんな一節に。

 「たいていの人と同じように、私も異端審問について耳にしたことはあった。
 しかし古文書を読む孤独な作業を始める前には、どれほど膨大な
 情報を見つけることになるのか、まったく分かっていなかった。

 恐ろしい苦悩やサディズム、自己喪失などの記録を読んでいると、
 この世は夢も希望もないと思えてくる。これほど組織的な虐待を、
 どうやって整理・分析して学問的に考えればよいか、見当も付かなかったのだ。
 言葉で表現しようがなかった。

 ときには、読んでいる物語のせいでなく、読みたいと思って古文書に戻る自分の冷酷さが
 異端審問官たちが調査を実施したときの冷酷さと同じではないか
 と幾度も感じられて、悲しくなることもあった。それでも、抵抗の逸話を見つけたときは、 
 威圧的で埃っぽい読書室で感じていた悲しみが、いくらかは晴れた。

 またときには、制度が深い悲しみを残しつつも衰退していく様子に、
 慰められることもあった。」  (第12章、p. 430)


二番目には、
異端審問に限らず、ほかの様々なことにも当てはまるであろう、
鋭い指摘が含まれているから。

とくに、次の箇所。(ここにも、著者は姿を現している)

 「~の件では、こうした疑問に異端審問官たちはほとんど関心を持たなかったようだ。
 それでも、ときには一部の審問官が、自分の動機に疑問を感じ、
 なぜこれほどまでに他人を傷つけたがるのかと自問したのではないだろうか。

 そう思っても、古文書は何も答えてはくれない。
 沈黙が下りる公文書館で苦痛を研究していても、帰ってくるのは沈黙だけだ。

 それでも、やがて一つの推測にたどり着く。
 異端審問官たちが、あれほど冷酷な目的意識をもって囚人を拷問できた理由は
 ただ一つ、
 自分たちが絶対に正しいと確信していたからだはないだろうか、と。」
  (第三章、p. 128)
 
なにかを信じることの大切さ、というのもある。
とくに、人と人との関係においては。
けれど、その「なにか」が、制度であるとか、言説であるとか、
正体があやしいものである場合には、
制度がこうなっているから、とか、これが正しいと「みなが」言っているから信じる、
それは、あまりにも危うい。
自分の頭で考えてみることが何事につけても肝心、と思う。
考えないのは楽かもしれないが、あまりにも、危うい。