2013年3月17日日曜日
ことばと<伴像>
Rainy Day Bookstore&Cafeに朗読劇『銀河鉄道の夜』を聴きに行った。
公演後半の、
さらなる、そして見事な変身を遂げていた朗読劇、
古川日出男さんの脚本、
賢治/小説家、詩人、音楽家、翻訳家四人の出演による朗読劇は
まずは濃密、繊細、かつ天上的な余韻を楽しむに留めておいて
前半について少し書きたいことがある。
前半。
上のほうが螺旋になっているらしい階段の、もう少し降りればフロアというあたりの段で
詩人が『島の水、島の火』から数片を読み、
つぎに同じあたりで
翻訳家が短編小説、「Wind Eyes」を読んだ。
階段の向かって右側には白い壁があって
詩人と翻訳家がことばを発するあいだじゅうずっと
その壁に映像、動画が投影されていた。
破壊的な波におそわれた跡の残る、
しかし部分的には無事なところもあるためにか
乱暴に無神経にこう言ってよければ、どこか遺跡とも通じる何かを感じずにいられない建物、
なぎ倒されたままの白いガードレール、
見慣れないふうに列の乱れたテトラポット、
埠頭、
雪の積もった川べり、
そこを歩き、目撃し、強い風に襟まきをあおられ、段をのぼり、
メモを書きつけ、雪に倒れ、歩き、見つめて(おそらく音を採取しても)いたのは
小説家と、音楽家。
(ことばを用いない)小説家と、(歌わず音も奏でない)音楽家の映像だけ。
詩人が手にしていたのは、2011年の秋分の日に刊行された詩集。
翻訳家が読んだのは、おばけ窓を一緒に探して遊んでいるうちに妹が「消えて」しまった少年の話。
詩人が読んだ詩すべてが、壁スクリーンに映し出される土地に結びつくものではなく
翻訳家が読んだのは、まったく別の土地の話。
でも、円と直線が、ただ一点で接するときの関係のように
映像とことばが、ふっと接する瞬間があり、どきっとする。
たとえば、少年は
ぼくがそんなことを口にしなければ妹は消えてしまわなかったかもしれないと悔やみ
妹が存在したことを知っているのは世界にぼくしかいないから
誰にも信じてもらえなくても自分だけは妹が「いた」と信じつづけた。
朗読する読み手の、そのすぐ隣に映像が流されて、
しかもその両者が独立し、完結していたので、正直なところ初めは戸惑った。
どちらに意識の焦点を当てればいいのだろう?
ことば?映像?
もしも、映像の代わりに音楽が流れていたら、私はほぼ確実に、
音楽を伴奏と捉え、背景に流れるものとして捉え、格別に戸惑いもしなかっただろう。
でも、それは何故?どうして音楽なら「聞き流す」ことができて、
映像はそれができないのか?
いや、ことばと共にある音楽を自分はほんとうに「聞き流して」いるのか?
聴きながら、見ながら、さらに自問自答していると、もうほんとうに間に合わない。
考えるのはやめて、聴き、そして見ることに集中した。
少しずつ、ことばと映像に同時に焦点をあてるような、
そうすることによって二次元のものから三次元を立ち上げる立体視のようなやり方が
つかめてきたように思えた。
ことばに寄り添う、伴奏ならぬ<伴像>。
ことばと映像の関係が
「ことばを映像によってわかりやすく視覚化する」ものでも、
「映っているものを言語として解説する」ものでもないとき、
(そしてもちろん、まったくの異種の寄せ集めではないとき)
聞き手/観客が、相当の努力を迫られる類の、
でもその甲斐のあるような、何かが生じうるのだと感じた。
あの夜は、想像力をつかさどる筋肉が筋肉痛になったみたいだった。
と言って、あの感覚をうまくことばに置き換えられているのか、まったく自信はないが。
2012年9月16日日曜日
ぷてぃんてたはどこにいる?
2012年7月4日水曜日
2012年5月18日金曜日
フエンテスと声
生前のインタビュー映像が、
グレゴリー・サンブラーノ先生のblogで紹介されている。
http://gregoryzambrano.wordpress.com/
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=mm2WBEqViUI#!
始まって5分ぐらいのところで彼が発したことばに、耳が反応した。
カーソルを動かし、気になった部分を繰り返して聞くと、彼は次のようにいっている。
Una novela tiene que ser fiel a sí misma.
En la medida en que lo es, defiende los dos grandes valores de la literatura,
que son la lengua y la imaginación.
小説(小説というジャンルla novelaではなく、
ひとつひとつの作品としての小説 una novela)は
自分自身に対して誠実でなくてはならない。
自身に対して誠実であるとき、小説は、
文学のもつ二つの偉大な価値を擁護することになる。
その価値とは、ことば(lenguaje)、そして、想像力(imaginación)。
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フエンテスの声を聞きながら、
内容から離れて思ったのは、
彼自身の声(の録音)を、わたし自身が「じかに」
(=翻訳や通訳という、第三者の思考の介入なしに)聴き取り、
そこからあれこれ考えをめぐらすことができるのは、
なんと贅沢で豊かで心躍る体験か、ということ。
(上にあげた文章の、日本語訳の方には、
すでに、フエンテスでない人物[私]の思考が介入してしまっている。)
こんなことがあると、
翻訳や通訳という仕事の価値を、
翻訳や通訳の成果から恩恵を受けていることを、
日本語に変換されたことば自体の価値を、十分に意識したうえで、思う。
スペイン語を学んできてよかった。
母語以外の言語を学べば、世界は確実に広がる。確実に。
今度は、こういう面白さを味わえるようになるための、添え木を提供したい。
2012年4月14日土曜日
2012年4月10日火曜日
ひだりの定義
2012年4月1日日曜日
1ero de abil (4月1日)
The next stop is Tokyo. The doors on the left side will open. Please change here for the Shinkansen, the Tokaido Line, the Yokosuka Line, the Sobu Line Rapid Service, the Keiyo Line and the Marunouchi Subway line.
3月31日の晩、ときおり翌日のことを思い描きながら、山手線は大勢の乗客を乗せていつものルートを巡り続けた。特に乗り降りの多い駅は、東京、上野、池袋、新宿、渋谷、品川、そしてまた東京。毎日何度もぐるぐると終わりのない輪を描いて走るのは、どうも気が滅入る。せめて始発駅と終着駅がはっきりしていればもっと達成感がありそうなのに。ほかの路線がうらやましい。しかし、ほかの路線にいわせれば、それは贅沢な悩みだった。一国の首都の、それも中心部にある重要な駅をつないで大勢の乗客を運び、生活を、経済を、滞りなく循環させていることも、始発駅や終着駅に長く停車して時間を無駄にすることなくいつも働いていることも、誇りに思って然るべきだ。ほかのだれもがそう考えた。
それでも山手線はくたびれていた。朝と晩のラッシュアワーが最も苦手だった。混み具合は年々ひどくなる一方で、ぎゅうぎゅうの車内に乗り込んでくる乗客たちの諦めと覚悟の入り混じったような、表情をころした顔を見るのもいやだったし、少しでも電車が遅れただけで駅員が怒鳴りつけられるのを聞くもいやだった。しかも、気を散らせて事故を起こしてはいけないと思って、駅の案内板に貼られた展覧会のポスターを見るというささやかな楽しみも、車内の吊り広告や、ドアの上に設置された小さな画面で流されるニュースや英会話番組を眺めるという気晴らしも、混んだ時間帯には控えることにしていた。
しかし何より、混んだ車内では会話をする人がほとんどいないのがつまらなかった。山手線にとって、車内で聞こえる会話は、外の世界を知るための貴重な情報源だった。車内に吊り下げられている週刊誌の広告や小さな画面で流されるニュースを見ていれば、世の中でどんなことが起きているのか少しは見当がついたが、取り上げられるのはごく限られた種類の話題だけだったし、どこまで真実が伝えられているのかもわからない。しかも、ひどく揺れたあの日以来、ニュースの画面に映画のような内容がうつることもあった。それで、どうにかして外のことをもっと知りたい、と、話し声の聞こえるときにはできるだけ耳を澄ましていた。けれども、体を動かす隙間もないほど混んだ時間帯に車内で聞こえる音といえば、電車自体のたてる音か、ヘッドホンから漏れて聞こえる音楽か、抑えた咳払いぐらいしかない。だから、よけいに憂鬱だ。
とは言え、今夜は、普段に比べればいくらかマシな気分だった。明日を楽しみにしていたからだ。これまでに聞いた会話の断片をつなぎ合わせると、4月1日というのは、ちょっとドキっとするような嘘や冗談でも笑って済まされるという特別な日であるらしい。この推測がたしかなものであると確信した去年から、山手線は、自分も何かやってみようと企んでいた。たとえば、車内で流れるアナウンスに手をくわえること。録音されたアナウンスは、毎日同じだから、味気ない。でも混んでいるときはピリピリしている人が多いから、空いているお昼過ぎにしておこう。大ごとにならないように、聴いている人の少ない英語のほうが無難かもしれない。何人か、気づいてくれる人がいればいい。でも一体、どこをどう変えたら、気が利いているだろう。
翌日の昼過ぎになっても、いいアイディアはまだ見つからなかった。いつも詰めが甘いんだ。そもそも、僕は声を出せないじゃないか。再生するアナウンスを途中で止めたりつなぎ合わせたりするぐらいならできそうだけど、それで何か面白いことができるだろうか。
The next stop is Tokyo. あああ、また東京駅か。ここで降りる人たちはあちこちへ移動していくのに、僕はまたぐるっと次の一巡に入るってわけだ。そう思った次の瞬間、聞こえたのは、Please change… 今だ!山手線は、アナウンスを急いで止めた。変えてください。でも、その先に何をつなげればいいかわからない。どうしよう、ふつうに続けるしかないか、ちっとも面白くないけれど、しょうがない。そのとき、ある乗客の膝の上で荷物がかすかに揺れ、か細い子猫の声が車内に響いた。ミー。Please change me. ことばがつながった。変えてください、僕を。そこで山手線は咄嗟に続けた。to prevent an accident. 事故を防ぐために。Please change me to prevent an accident. 僕を変えてください、事故を防ぐために。それはもはやジョークではなく、ぎりぎりの状態にあった山手線の、必死の訴えだった。
それでも、山手線は、東京駅を出るといつものように神田駅に到着し、神田の次は秋葉原に、その次は御徒町に止まった。次は上野。ぼくは所詮東京の中でぐるぐる回っているしかないんだ。山手線は、少しずつ気持ちの整理をつけようとしていた。
ところが、彼の気づかないところであの叫びを聞き取った乗客たちがいた。それを、また別の人に伝えた人がいた。駅員に伝えた人もいた。少しは東京の外に出るのもいいだろう、と、たくさんの人たちが共感した。彼らは動いた。
上野駅の宇都宮線のホームで電車を待っていた人たちは、そこに山手線が入ってきたのを見て少し驚いたが、東京にしては珍しく思いきった4月1日の冗談だろうと見当をつけ、面白がって乗る人は乗りこみ、いつもの車両でないと安心できない人は次の電車をおとなしく待った。
上野駅を出たところで、山手線は、自分がいつもと違う線路の上を走っていることにようやく気づいた。延々と循環する、いびつな輪から、ついに解き放たれたのだ。線路は、北の方角に向かって伸びていた。車内で交わされる会話の響きが少しずつ変化していくのに耳を澄まし、初めて見る外の景色に目を凝らしながら、山手線は一駅、また一駅と、北上していく。
(2011年8月)
2012年3月31日土曜日
門内幸恵さんの絵画展
2012年2月12日日曜日
フリオと詩
2011年11月20日日曜日
Periodico de Poesia, 2011年11月号
2011年8月31日水曜日
あああ古川さんの映像が見られる…
古川日出男×小島ケイタニーラブ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京
http://www.youtube.com/watch?v=xB5TJxWz95Y
古川日出男×黒田育世×松本じろ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京
http://www.youtube.com/watch?v=SEP1S4YCaoU&feature=related
古川日出男×黒田育世×松本じろ×小島ケイタニーラブ「東へ北へ」20110709@SARAVAH東京
http://www.youtube.com/watch?v=_bEp4h2hWY8
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