3月11日の夜、
Rainy Day Bookstore&Cafeに朗読劇『銀河鉄道の夜』を聴きに行った。
公演後半の、
さらなる、そして見事な変身を遂げていた朗読劇、
古川日出男さんの脚本、
賢治/小説家、詩人、音楽家、翻訳家四人の出演による朗読劇は
まずは濃密、繊細、かつ天上的な余韻を楽しむに留めておいて
前半について少し書きたいことがある。
前半。
上のほうが螺旋になっているらしい階段の、もう少し降りればフロアというあたりの段で
詩人が『島の水、島の火』から数片を読み、
つぎに同じあたりで
翻訳家が短編小説、「Wind Eyes」を読んだ。
階段の向かって右側には白い壁があって
詩人と翻訳家がことばを発するあいだじゅうずっと
その壁に映像、動画が投影されていた。
破壊的な波におそわれた跡の残る、
しかし部分的には無事なところもあるためにか
乱暴に無神経にこう言ってよければ、どこか遺跡とも通じる何かを感じずにいられない建物、
なぎ倒されたままの白いガードレール、
見慣れないふうに列の乱れたテトラポット、
埠頭、
雪の積もった川べり、
そこを歩き、目撃し、強い風に襟まきをあおられ、段をのぼり、
メモを書きつけ、雪に倒れ、歩き、見つめて(おそらく音を採取しても)いたのは
小説家と、音楽家。
(ことばを用いない)小説家と、(歌わず音も奏でない)音楽家の映像だけ。
詩人が手にしていたのは、2011年の秋分の日に刊行された詩集。
翻訳家が読んだのは、おばけ窓を一緒に探して遊んでいるうちに妹が「消えて」しまった少年の話。
詩人が読んだ詩すべてが、壁スクリーンに映し出される土地に結びつくものではなく
翻訳家が読んだのは、まったく別の土地の話。
でも、円と直線が、ただ一点で接するときの関係のように
映像とことばが、ふっと接する瞬間があり、どきっとする。
たとえば、少年は
ぼくがそんなことを口にしなければ妹は消えてしまわなかったかもしれないと悔やみ
妹が存在したことを知っているのは世界にぼくしかいないから
誰にも信じてもらえなくても自分だけは妹が「いた」と信じつづけた。
朗読する読み手の、そのすぐ隣に映像が流されて、
しかもその両者が独立し、完結していたので、正直なところ初めは戸惑った。
どちらに意識の焦点を当てればいいのだろう?
ことば?映像?
もしも、映像の代わりに音楽が流れていたら、私はほぼ確実に、
音楽を伴奏と捉え、背景に流れるものとして捉え、格別に戸惑いもしなかっただろう。
でも、それは何故?どうして音楽なら「聞き流す」ことができて、
映像はそれができないのか?
いや、ことばと共にある音楽を自分はほんとうに「聞き流して」いるのか?
聴きながら、見ながら、さらに自問自答していると、もうほんとうに間に合わない。
考えるのはやめて、聴き、そして見ることに集中した。
少しずつ、ことばと映像に同時に焦点をあてるような、
そうすることによって二次元のものから三次元を立ち上げる立体視のようなやり方が
つかめてきたように思えた。
ことばに寄り添う、伴奏ならぬ<伴像>。
ことばと映像の関係が
「ことばを映像によってわかりやすく視覚化する」ものでも、
「映っているものを言語として解説する」ものでもないとき、
(そしてもちろん、まったくの異種の寄せ集めではないとき)
聞き手/観客が、相当の努力を迫られる類の、
でもその甲斐のあるような、何かが生じうるのだと感じた。
あの夜は、想像力をつかさどる筋肉が筋肉痛になったみたいだった。
と言って、あの感覚をうまくことばに置き換えられているのか、まったく自信はないが。
Jamaica Break ハマイカブレイク
言葉・人・東京などについて。2008/2009.2はメキシコ便り
2013年3月16日土曜日
世界が丸くなった日
2013年2月23日の夕刻、サルヴァドール(バイーア、ブラジル)の浜辺にて。
ブラジルのなかでも特にアフリカ系の存在感が大きいこの町を歩いてみて
南アメリカ大陸/大西洋/アフリカ大陸、と
地球儀をアメリカ大陸から東へ東へとたどるような想像力が
はじめて目を開けたような気がした。
こどものころから見てきた「世界地図」の視覚的記憶
―つまり、まず中心に日本があり、
左右を見わたせば
西にユーラシア大陸、東に両アメリカ大陸、
両者をつなぐ大西洋は、紙面のあちらに半分、こちらに半分という
地球を大西洋で分断し、平面にぺたっとひろげた世界のビジョン―
に、これまで自分がどれほど強い力でとらわれていたかを意識する。
世界はラランジャのように丸いのだ。
2013年2月19日火曜日
2013年2月16日土曜日
オレンジ、連想、崖っぷち
ネーブルオレンジを買った。
スパッと半分に切った瞬間、メキシコの記憶が蘇る。
メルカード(市場)の情景。
ごつごつした石畳の帰り道。
スニーカーの足裏の感触。照りつける日差し。
ごつごつした石畳、段差の多い歩道、
二重の鍵、鉄の黒い扉、
扉をあけてしめたのを聞きつけたセシリアの
サラワレッカムという声(セシリアはメキシコに住むムスルマーナだ)
みっちゃん(ゴールデンレトリバー)の爪音、ふかふかの毛、ピンクの舌、
木の床の感触、左の窓からの日差し、
トルティージャの香り、
台所、
アンドレス(セシリアの息子)にオラと挨拶、
ビニール袋、買ったばかりのオレンジをとり出して
ナイフでスパッ と。
嗅覚の神経は、論理的思考をつかさどる回路を介さずに
記憶や感情の回路にダイレクトにつながっていると
聞いたことがあるような、ないような。
そしてオレンジの香りからもう一つ思い出したのが
フェルナンド・バジェホの『崖っぷち』(久野量一訳、松籟社、2011年)。
小説のどこかで出てきた、(ゴミバケツに入っていた、のだったか?山ほどの、だったか?)
腐ったオレンジの匂いは
あの作品の核心をついていると感じた。
無粋を承知で、冗長なことばにしてみるならば
いつのまに腐っちまったんだよ。
鮮やかな色が却って腹立たしいよ。
まだ残ってる甘い匂いで胸が悪くなる。
なんなんだよ、この有り様は。
あのオレンジを返してくれよ。
…という感じ。
もとから苦くドロドロしたような何かじゃなくて、
よりにもよって
何よりも爽やかな、気持ちにもからだにも健やかなはずの果物が、腐った。
みすみす無駄になった。最低な仕方で。
大切なものが失われてしまったこと、
そして、それを取り戻す術はもはや残ってないことに対する、
腹立たしさ、くやしさ、情けなさ、悲しみ。
尖った暴力性(violencia)の根には、ときとして(あるいはしばしば)、深い悲しみがある。
そんなことを感じた小説だった。
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